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大石神社 (横浜市緑区長津田町)

参拝日 令和3年1月7日(木)
作成日 令和3年8月8日(日)
改訂日 令和6年3月1日(金)
 
よみ  おおいししゃ  
所在地  横浜市緑区長津田町2322
  (35度31分48.61秒 139度29分33.31秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 大石社
祭神  大石大神 ( おおいしおおかみ )
由緒  境内にある掲示には次の様に記されてゐる。平成26年10月に墨書された模様。
大石神社由来

 当社の由緒については詳ではない
新編武蔵風土記稿によると、長津田村大石大権現祀と称し、在原業平朝臣(ありわら の なりひらあそん)を祀ったものと伝えられている。
 万有百科大事典によると、業平朝臣は平安朝前期の人(825〜880)平城天皇の孫にあたらせ古今の若の先駆をなし、美男で放縦な性格を持つと記されている。御神体は楕円形の自然石で文字等の刻込みはなく、本殿に四角な台座に下部をはめ込んで立ててある。台の上に現れている部分の高さは、1.35米、中央部の一番広いところの幅 1.10米、上部は漸次細くなりて突起となる。正面から見ると円味をおびいかにも均衡のとれた、形のよい石と田奈郷土史にも記されている。
 神石は武蔵、相模、両国の国境にあったが、百姓其の帰属を主張して譲らず遂に争いとなり神意により武蔵に鎮座したものと言われる。 神石の在ったところと称する地点を元石と言い、今尚その地名が現存しているのである。又、業平朝臣は東国下向時此の地で、その討手か、又賊かに取りかこまれ、周囲から火を放たれ あとには、大きな石が一つあったという。以上が神石にまつわる伝説である
その真偽については問う所ではない。
下って 元禄七年(1694年)五月、領主岡野平兵衛等社殿を修復し、更に宝暦二年(1752年)六月社殿を造営した旨、旧本殿の棟札に記してあった。
大正十二年(1923年)五月、神明社、稲荷社を合祀し、同年九月一日関東大震災により石造本殿が崩壊し、宮内省より御用材を賜り再建したが、早急のため粗末であったので昭和三十五年(1960年)十月蔵造りに建替えた。又、此の当時まで境内に業平竹と言う竹林があったが今はいずこにもそれらしきものは見当らない。
宗教法人法により 昭和二十八年(1953年)八月、神社本庁所属の宗教法人を設立、宗教団体として届出て今日に至る。
 近年になって平成三年(1991年)七月本殿、拝殿改修を実施し、その後宮下氏子より幾度となく建て替えの声が上がり、平成二十三年(2011年)三月の東日本大震災を機に老朽化と耐震性を考慮し摂社、末社を合わせて平成二十五年(2013年)三月、宗教法人大石社 本殿・境内整備建設委員会を立ち上げ、本殿・拝殿・神楽殿・社務所を整備し宮神輿も合わせて新調することとなった。
 整備工事は平成二十六年(2014年)一月に着工し、同年九月に竣工した。
 尚、祭礼日は、毎年十月第二日曜日と定められている。

本殿  木造平屋銅板葺き 7.44平方米
拝殿  木造平屋銅板葺き 30.03平方米
    境内面積    4313.00平方米
    所在地   長津田町2322番地

大石神社奉賛会

 神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる。
由縮沿革 創立年代は不詳であるが、新編武蔵風土記稿に元「長津田村大石権現社と称し、在原業平朝臣を祀ったものと伝う。」神体は石でその大きさ人の容(かたち)に同じく、音は相州境にあったが、武蔵、相模両国の百姓各々其の帰属を主張して譲らず、争となったが、神意により遂に武蔵に鎮座したものと言われる。元禄七年五月領主岡野平兵衛房恒等社殿を修覆し、更に宝暦二年六月社殿を造営した旨が現存の棟札に記されている。大正十二年五月神明社、稲荷社を合祀、同年九月関東大震災により本殿崩壊したので宮内省より御用材を賜わり再建した。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる。
大石権現社 (除地詳ナラス高札場ノ辺ノ丘上ニアリ此社アルヲ以テ字ナモ大石山ト呼リ当社ハ在原業平朝臣ヲ祭レルナリト云神体ハ石ニテソノ大サ人ノ容二同シ相伝フ昔ハ相州ノ境ニアリテ両国ノ百姓アラソヒヲコリシカソノ後当村ノモノニ定リシニヨリ此地ヘ祭リシト云朝臣東国ヘ下向シ死シテ石ニ化シタリト云尤無稽ノ説ナルコト論ヲマタスサレト当所ニ祭ルコトモ旧キコトヽ見エテ石階ノ上ノ左右ニ古木四○ナラヒタテルサマナリスヘテ社地ノ生ヒシケリタルナシレハ古代ヨリノ地ナルコト経ユヘカラス本社ノ上ニ覆屋アリ三間ニ四間例祭ハ年々六月二十四日不動院ノ持)
雑記  横浜線長津田駅から南西へ0.3kmの所にある。

 大山街道=国道246号線、と大雑把な理解でゐたので当社の前の道路が大山街道だったとは知らなかった。道路の改修や付替は幾度となくされてゐる模様。参道入口から西へ20m程の所からは道なりは新しい道で、長津田小学校へ向ふ道が旧道。
 明治期の地図を見ると当社から北西へ200m程の所に神社記号があった。現在は記念碑の記号がある。当社に近いことから何かと思ひ調べたら、八坂神社があり、皇太子殿下御野立之跡碑と慰霊碑・忠魂碑があることが判った(3)(4)。鎮守のお社に慰霊碑が無かった理由が判った気がした(お寺にあるかも知れない)。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

向って右手の方に女坂がある。幅が広いのでそちらの方が利用しやすい。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

参道、鳥居と社号標、鳥居をくぐって左手に手水舎。

社号標の手前の所で右からの女坂と合流してゐる。社号標は平成二十九年奉納。
鳥居は昭和四十七年十月奉納。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

社殿正面

向って右側の灯籠前に手水鉢が置いてあり、文政十二丑年六月吉日、と年記がある。文政十二年は1829年、前年にはシーボルト事件が発生してゐる。
狛犬は「嘉永六丑六月吉日」「願主岡部兵右エ門」とあり、台には「昭和五十四年十月吉日 施主岡部一誠」とある。嘉永六年は1853年、ペリーが浦賀沖に来た年。

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

社殿側面

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

境内社の大石稲荷社。覆屋内には小祠があり、平成二十年九月二十七日付で修復竣工祝で世話人名簿が記されてゐる。

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

女坂中腹にある上宿常夜灯。矢倉沢往還(大山街道)に設置されたものとの事。天保十四年(1843)に長津田宿中の秋葉山講中が建立したもの。平成元年に横浜市地域史跡に登録されてゐる。講中設置の碑によると、当所女坂麓の右側にあったが昭和二十九年の道路拡幅に際して移転していた。(昭和六十二年に)地主の都合により現在地に移築整備したとの事。

階段の手前には「維持慶應四戌辰載仲春吉日」の年記のある 地神尊碑 がある。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.70
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之八十八 長津田村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  3. 令和3年8月7日閲覧 web サイト桜花の絆!慰霊塔 (御野立之趾
  4. 令和3年8月7日閲覧 webサイト写真集HIDSBY’s Photographs八坂神社 長津田 2019-08-04

改訂記録
  • 令和06.03.01 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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