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王子神社 (横浜市緑区長津田町)

参拝日 令和3年1月7日(木)
作成日 令和3年8月8日(日)
改訂日 令和6年3月1日(金)
 
よみ  おうじじんじゃ  
所在地  横浜市緑区長津田町7-5-34
  (35度31分38.48秒 139度29分39.51秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 王子神社
・Wikipedia:王子神社 (横浜市緑区)
・当社HP
祭神  伊邪那岐命 ( いざなぎのみこと )
 速玉男命 ( はやたまおのみこと )
由緒  境内にある王子神社社殿造営記念碑には次の様に刻まれてゐる。
王子神社は 江戸時代の初期 長津田の領主 岡野平兵衛房恒によって創建され 以来長津田の鎮守として私達の祖先が代々守り続けてきた由緒ある社です
草葺の大きな社殿でしたが、昭和三十三年九月の台風に伴う豪雨の際 裏山が決壊してその土砂により大きな被害を受けました 間もなく社殿は世話人氏子の努力により復旧されましたが 当時の経済情勢から暫定的な建物とし 時期を観て造営する意向であったと云われております その後造営に関する提案もありましたが 諸般の事情もあり造営ノ気運に至らず 内装の修理 女坂の舗装等を行い神社の護持運営に努力してきました 然しながら社殿の老朽化は進み造営をせざるを得ない状況に立ち至っておりました このような折 氏子の中で夙に敬神の念が篤い岡部喜代氏から昭和五十四年に喜寿の祝い 昭和五十八年に結婚五十七年を記念して それぞれ五百万円計壱千万円が神社造営資金として寄進されました これを機に五十八年七月二十九日王子神社奉賛会において新社殿造営の方針を決定し 同年八月二十九日に王子神社社殿建設委員会の発足をしました 以来 委員会を中心として社殿造営に要する浄財を募ったところ 氏子のみならず 他地区崇敬者の皆様からも多額の御寄進が寄せられ この浄財を基に建設委員一丸となって この大事業に取り組み三年余の歳月を費やし ここにめでたく この事業の完成を見ることができた次第でありす
  昭和六十一年十月十日
   王子神社社殿建設委員会
    以下略

 社頭の掲示には次の様に墨書されてゐる。(一部読取れなかったので当社HP参照した)
王子神社御由緒

鎮座地  横浜市緑区長津田七丁目五ノ三四
      (旧武蔵国都築郡長津田村)
御祭神  伊邪那岐命 ( いざなぎのみこと )
     速玉男命 ( はやたまおのみこと )
祭事   歳旦祭(一月一日) 節分祭(二初日曜)
     例大祭(四月二十九日) 大祓祭(六月末日曜)
     七五三祭(十一月中)

 天正十八年(1590年)徳川家康の江戸入城に伴いその旗本岡野房恒公が長津田(千石)の領主として知行を許された
 房恒公は菩提寺として大林寺を開基し長津田村鎮守として国家安泰極楽平穏の霊験あらたかな神として平安時代から全国の人々に尊崇され「伊勢七度熊野へ三度」とか「蟻の熊野詣で」といわれる程信仰の厚かった熊野三山(本宮 新宮 那智)のうち新宮(速玉大社)より若一王子権現をこの地に勧請して慶長元年(1596年)に創建別当寺(神社の護持職)として福泉寺を開基し管理運営に当らせた。
明治維新の神仏分離令によって権現をとり若一王子神社と改めて明治六年に長津田村の村社に列せられ村人の崇敬をあつめてきたが昭和三十三年の狩野川台風によって社殿が損壊し翌々年、仮社殿を建てて、岡野家の造営になる立派な奥宮を保存してあったところ時代の変遷と共に本殿○営の気運次第に高まり昭和六十一年全額、氏子並に崇敬者の寄付によって台湾檜の良材を得、秋田の名工の技による権現造りの立派な社殿の完成をみたものである

 神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる(1)
由縮沿革 創立の年代不詳であるが、元は王子権現又は若一王子神社と唱え、地頭岡野平兵衛房恒の勧請によると伝える。明治六年村社に列し、昭和十八年七月九日神饌幣帛料供進社に指定された。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(2)。( )内は割注部分。
王子権現社 (除地詳ナラス小名中村ニアリ当社アルヲ以テコノ辺ヲ宮ノ前ト云年代ハシレサレトモトノ地頭岡野平兵衛房恒カ勧請スル所ナリト云サレハ御入国後遠カラス頃ノコトナルヘシ本社九尺四方ハカリ宮作ニシテ欄干ヲ設ケ扉ニハ丸ニ酸醤草ノ紋ヲ彫ル是岡野家ノ紋ナレハナリ覆屋ハ三間四方ニシテ前ニ鳥居ヲ立其マヘニ石階アリ福泉寺持)  末社稲荷社 (本社ニ向テ左ニ立傍ニ疱瘡神ノ社ヲ立リ)
 註 酸醤草:酢漿草のことか? 酢漿草は「かたばみ」
雑記  横浜線長津田駅から南へ0.5kmの所にある。
  • 「王子神社境内整備事業記念碑」があり、御鎮座四百年にあたる年に石垣・玉垣・女坂の整備をしたと云ふ、平成八年五月吉日付け。
  • 「王子神社 社務所増築 顕彰碑建立 事業記念碑」があり、本殿新築から二十周年を迎え社務所新築と今日の基礎を築いた故小林宮司顕彰碑を建立したと記されてゐる。平成十九年三月吉日付け。
  • 「顕彰碑」は社号標の右手の方にある。読むと、かつては兼務社だったが神社発展のため昭和62年から常勤神職として勤め始め、後、資格取得し主務社に戻らず宮司として奉職したが平成12年1月17日交通事故で命を落したと云ふ。享年57歳。悼ましいことだ。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

中央に大木(樅の木・御神木)があり、左右に階段が設けられ、どちらからでも鳥居をくぐって行ける。

鳥居は写真に写ってゐる大鳥居と階段を登り切った所にある二の鳥居がある。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

社殿正面

狛犬には「嘉永」の文字が読取れた。

灯籠には金婚記念と刻まれてゐた、昭和五十二年三月二十五日の年記。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

社殿 斜め前から

写真4
写真4 拡大 (1600×960)

境内の様子。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.70
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之八十八 長津田村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.03.01 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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