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牛久保天照皇大神 (横浜市都筑区牛久保)

参拝日 令和3年10月16日(土)
作成日 令和4年7月10日(日)
追記日 令和6年2月14日(水)
よみ  うしくぼ てんしょうこうたいじん
概要  当社(牛久保天照皇大神)は横浜市都筑区牛久保に鎮座する。創立年代不詳。牛久保の鎮守。港北ニユータウン造成事業で近隣の高台(地名:請地)から遷つたとみられる。  
所在地  横浜市都筑区牛久保西 1-15-1
  (35度33分29.75秒 139度34分51.11秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 天照皇大神
・Wikipedia:─
・当社HP :─
祭神  天照皇大神 (あまてらすすめおおみかみ)
由緒  『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様にのってゐる。(1)
鎮座地 横浜市港北区牛久保町505
由緒沿革 創立年代不詳であるが、古来の牛久保鎮守である。

 新編武蔵風土記稿の牛久保村の条には10社が記録されてゐる(2)が、牛久保の鎮守とはどれにも記してゐない。社名と東ノ方ニアリとの記述、所在地が現在地近いことから、神明社と思はれるので神明社のみ引用する。10社は、どれも村民持ちで、別当寺が無かったので記録が残りにくかったのだらうか。
神明社 (除地三畝東ノ方ニアリ社ハ一間ニ二間半)
雑記  最寄駅は当社から南南西(203°)へ0.5kmの所に横浜地下鉄センター北駅がある。 

 由緒について、web検索では次の記載があった。
(1)「港北ニュータウン造成事業で(平成10年10月)近隣(請地)高台からこちらに移転してきた牛久保総鎮守様です。」(3)
(2)「後醍醐天皇の時代に伊勢神宮にて、その際神爾を受けた方がこの牛久保村に天照皇大神を祀ったそうです。」
いずれも根拠や出所記載がない。(1)については、以下のやうに地図を見比べると尤もと思はれる。

 地図を調べてみた。
・明治期迅速測図には現在地から東南東へ100m程の小高いところに、神明社がある。平地は水田になってゐる。
・和初期の地図には牛久保のほか請地といふ地名が記載されてゐる。
・昭和60年頃の地図になると、周囲は宅地造成中と記載され、等高線の本数が格段に減り間隔が開いてゐる。
・平成初期の地図では神社記号が消え、町名も牛久保町が無くなり牛久保西一丁目と記されてゐる。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 鳥居は、柱に「氏子中 平成十年十月吉日」とある。
 社号標背面には、こちらも「奉献 平成十年十月吉日」のほか奉納者名が刻まれてゐる。

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿 正面

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿 斜め前

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿 御本殿

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿 拝殿内

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿前から鳥居方を望む

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 境内へは東側(車が駐車してゐる辺り)に階段があり入れる。柱が二本立ってゐて、台座の形から鳥居だったとみられる。柱には「大典記念」「大□四年十一月十日」と文字が読める。また、手水鉢が置かれてゐて、石鉢には「明治十二歳己卯十一月 武蔵国都築郡牛久保村 氏子中」とある。
 なお、南参道の右手には手水舎があり、手水石は平成十年十月に奉納されたもの。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.56
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之八十五 牛久保村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  3. 令和4年7月6日閲覧 天照皇大神 | つづきの魅力!ーつづき交流ステーション

改訂記録
  • 令和06.02.14 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。概要欄作成と記入。
  • 令和04.08.20 白地図の東西・南北範囲の誤記(290km×270km)を訂正

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