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伊勢社 (横浜市青葉区新石川)

参拝日 令和元年3月15日(日)
作成日 令和2年11月28日(土)
改訂日 令和6年3月13日(水)
 
よみ  いせしゃ  
所在地  横浜市青葉区新石川2-11-7 (35度34分22.28秒 139度33分29.76秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 伊勢社
祭神  大日孁尊(オオヒルメノミコト)
由緒  境内の碑には次の様に刻まれてゐる。
伊勢社
鎮座地  横浜市青葉区新石川二丁目十一番地七
「神奈川県神社誌」によると祭神 大日孁尊(オオヒルメノミコト)
例大祭  四月三日 午后三時より式典
社殿   切妻造平入向拝銅版板葺 七.七五坪
境内坪数 三00坪 氏子数 一四三名
土地区画整理と同時に新築 昭和五十一年五月

由緒  伝承
伊勢社は旧石川の中村と下谷の二つの集落の谷戸である。江戸時代後期の地誌である「新編武蔵風土記稿」には「伊勢社、除地一段、村の東にあり、南に向ふ」とある。江戸時代書記の創建と言われるが・・。伝承では、この伊勢社は昔、中村に源内様という方がおられ、其の方の所有であったという。棟札が五枚遺されている。一番最古のものは文字が焼失している。年代順に示すと宝暦十二年(1762)天明八年(1788)天保十年(1839)そして新築される前の社と考えられる、明治十八年(1885)である。宝暦十二年のには「天下和順 日月清明 奉造立太神宮小社一宇所願成就修 導師別當満願寺□□惣氏子中 石川大工當内仁兵衛」とある。氏子達は「天候の安定と豊作、そして穏やかな日常を祈願していた。慶応二年の記録には下谷四十三戸 中村二十五戸の寄進者が見える。最高は一両、平均は二分の寄進額 明治二十年の記録によれば、祭礼は九月二十日、氏子は八十八戸、神官は関戸良本となっている。明治初年の「神仏分離令」により保木の関戸氏が祭祀を努めるようになったのだろう。大正の頃から祭礼は四月三日となり今日に至っている。宵宮には中村で幟を立て、当日は神主を迎えて式典と直会を行った。幟返しは下谷の役目だった。昭和五十一年五月に現社の新築がされてから、地元囃子連による囃子の奉納が行われるようになった。昭和五十四年二月十八に新石川の街が誕生すると共に周辺は良好な住宅地となり人口は急増した。現在旧中村 下谷の人口は約二万人余となり、その氏神として崇敬を集めている。

境内社  秋葉神社 由緒 伝承
平成十年九月に新石川四丁目十七から造成工事の為当地に遷宮した。 棟札が三枚遺されている。文化五辰歳(1808)五月五日には「秋葉山大権現中村下両谷氏子」また明治七年(1874)のには「表─奉遷宮秋葉山宮謹言 國土安全五穀成就中村下谷惣氏子中」。これによると、文化五年(1808)に静岡県周智郡春野町秋葉山にある秋葉神社の分霊を勧請したものと考えられる。「火防せの神」として著名で秋葉信仰は江戸時代後期の文化文政期に最盛期を迎えたとされている。当地もその例であったのであろう。ただご神体が「からす天狗」であることから、神仏分離以前の秋葉山の「三尺坊大権現」を勧請したものと考えられる。現在「三尺坊大権現」は可睡斉に移されている。伝承によると、当初は向根の齋藤清兵衛家に祀られ、中村下谷両谷の持であったという。そして明治七年新石川四丁目に遷宮された。その時も中村と下谷の持となっている。しかし中村の持ちは伝承にはな。何時までだったのだろうか。現在では下谷の向根、原、高津の三地区で年番を務めている。
  例大祭 九月十五日 平成21年度は高津当番(2009)

境内社  三峯神社 金毘羅神社 由緒 伝承
三峯信仰は埼玉県にある三峯神社への信仰である。火難・盗難除けとして信仰を集めオオカミの像の神札は有名である。金毘羅は四國の琴平神社への信仰である。このように二つの信仰を一つの塔に合せて造立したものは全国的には多い。この石嗣の銘文を見てみると、右横─再建嘉永四辛子年 春二月吉祥日別当満願寺 左横─石川村願主下谷とある。この石塔は以前、新石川四丁目十五番近くの東名高速道路上辺にあったのだが、東名高速の建設のため先の秋葉神社の地に遷座したのである。従前の祭礼は十二月一日で遷座してから秋葉神社の祭礼と同日となった。台石には世話人として五名の名前が刻まれている。また、地所寄付として工藤鉄次郎の名の入っている明治初期に驚神社下の下寮で子弟の教育をした人物である。オオカミの神像は下谷の家々では今でも見受けられる。祭礼は秋葉神社と同日九月十五日である。境内には廿三夜塔。地神塔が祀られている。
郷土研究者 横溝 潔 氏 調べより
奉納 平成二十一年四月吉日
          前伊勢社代表総代  工藤 岩男  謹書

 神奈川県神社庁誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 創立年月不詳であるが、当地の鎮守として古くから村民の信仰を集めている。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(2)。( )内は割注部分。
伊勢社 (除地一段村ノ東ニアリ南ニ向フ)
雑記  東急田園都市線たまプラーザ駅から南へ0.4kmのところにある。東名高速道路は東0.4km余の所を南北に通ってゐる。

補遺 写真他で記したていない石像物等
・手水鉢 狛犬から少し社殿方向の参道右側にある。写真2に写ってゐる。はめ込まれた石板には「奉納 横溝弥太郎74才 工藤久作74才 飯島正壽68才 昭和五拾参年五月吉日」とある。
・共通してゐるが、多くの石像物には「維持費参万円也」、由緒碑には「維持費 金五萬円也」等と刻まれてゐる。

 社頭には、朱書で「伊勢社 例大祭中止 いたします とあった。中華人民共和国武漢発の流行病への不安は今以上に強かったから、致し方なし。

 神奈川県神社庁web(HP等欄参照)には、「驚神社と二重氏子。」とも記されてゐる。確かに同じ苗字の方が多い。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

写真2 参道
写真2 拡大 (1280×960)

参道

狛犬は、昭和五十一年五月吉日 と年記がある。願主は横溝弥太郎氏

写真3 社殿
写真3 拡大 (1280×960)

社殿

写真4 秋葉神社
写真4 拡大 (1280×960)

秋葉神社

・参道右側には碑があり「奉納秋葉神社社殿」とあり、碑背には「平成十年九月吉日 齋藤利雄」とある。
・鳥居は、奉納 齋藤正好 平成拾年九月吉日 とある。
・灯籠は、施主 工藤 明  平成拾年九月吉日 とある。

写真5 拝殿前から社頭方を望む
写真5 拡大 (1280×960)

拝殿前から社頭方を望む

写真6 地神塔・三峯金毘羅社・廿三夜塔・社号標
写真6 拡大 (1280×960)

・上:地神塔 
・下左:三峯社・金毘羅社 (全体は撮り忘れた。秋葉神社社殿に向って左側に鎮座。写真4では灯籠の影となってゐる) 参拝時、カップ酒が供へられてゐた。
・下中央:廿三夜塔 
・下左:社号標 背面には「昭和五拾一年五月吉日 建之 維持費 金貳万円也 氏子 工藤友次 自筆」とある。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社庁誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.72-73
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之八十七 石川村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.03.13 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 神社庁web神社情報のリンク修正。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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