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甲神社 (横浜市青葉区鴨志田)

参拝日 令和3年2月3日(水)
作成日 令和3年8月14日(土)
改訂日 令和6年3月1日(金)
 
よみ  かぶと じんじゃ  
所在地  横浜市青葉区鴨志田296-1
  (35度33分53.17秒 139度30分31.23秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 甲神社
祭神  日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
由緒 神奈川県神社庁誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 創立年代不詳であるが、戦国時代と伝えられ、新編武蔵風土記稿に記載されている。境内地後方続きに土手数丁あり、此地を腰巻といわれ、此所より種種の石器出土し、往古の城跡であると古老の伝承がある。御神体は石剣に似ているもので、祭神日本武尊、社名甲神社と称したのも、武士の尊崇が篤かったことが推察できる。現在の社殿は大正十四年十二月一日、氏子中の寄進により改築した。爾来鴨志田町産土神として篤く崇敬されている。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(2)
甲明神社 (見捨地一段五歩字台ニアリ平地ニシテ畑ツヽキノ処ナリ社ハ一間半ニ二間巽ニ向フ木ノ鳥居ヲ立神体ハ其形石剱ニ似テ長サ一尺八寸許ノ石ナリ)
雑記  小田急線小田原駅柿生駅から南ないし南南東へ3.1km、東急田園都市線青葉台駅から北北西へ2.7kmの所にある。

 青葉百景(3)によると
 「神社の裏手の甲神社遺跡からは縄文中期や弥生後期の土器も出土しており、朝光寺原式土器との関連から、この地も朝光寺原古墳群の勢力圏と見られている。」
 「甲神社の呼称は、石棒を剣に見立てたという説より、源氏滅亡後にこの地に逃げ延びて来た鴨志田一族が土着を決意し、兜などを埋めたと言う伝承によるのかも知れない。」
 「境内には、開発で集めれた地神塔、庚申塔などの古い石造物もある。」
と云ふ。

 狛犬の奉納者を見て、近くに三菱の生命科学研究所がかつてあったのを思ひだした。そこは学生時代に憧れの的だったが、就職出来る訳のない、縁の無いところとみてゐた。近くと思っても地図上で確かめたら4.4km離れてゐた。実際は、鴨志田に三菱ケミカルの研究所があるから、そこの旧称なのだらうか。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

社殿正面

手水石には昭和六十二年九月吉日の年記

狛犬は「昭和62年9月吉日 三菱化成工業株式会社総合研究所」とある。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

御本殿

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

拝殿内

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

社殿脇から前方を望む

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

「開発で集めれた地神塔、庚申塔などの古い石造物」(3)

石像物の中には、
・溜池改修の「記念碑」 昭和十九年に金久保溜池は荒廃し旱魃被害が発生してゐたため県市の助成と国民学校児童の勤労奉仕を得て竣工した旨、刻まれてゐる。
・青面金剛像(庚申塔か)には西大山道、文化十三丙子九月の年記もある。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.65
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之八十八 鴨志田村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  3. 令和3年8月10日閲覧 青葉百景を探る会によるサイト「青葉百景」内の「杉木立の中の甲神社」山本文義 2005-01-30掲載

改訂記録
  • 令和06.03.01 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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