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金毘羅社-宗英寺鎮守堂 (横浜市青葉区鉄町)

参拝日 令和3年3月2日(水)
作成日 令和3年8月21日(土)
改訂日 令和6年3月1日(金)
 
よみ  こんぴらしゃ  
所在地  横浜市青葉区鉄町790
  (35度34分5.33秒 139度31分0.91秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  曹洞宗一抽山 宗英寺web宗英寺の鎮守堂
祭神  道了大権現
 秋葉大権現
 金毘羅大権現
 不動明王
 白山妙理大権現
由緒  宗英寺の鎮守。同寺のwebには次の様に載ってゐる。
宗英寺山道入り口右側山の中腹に、宗英寺の鎮守堂がある。祠の形態は宮設造り。拝殿奥の院御排内宮祭神は、道了大権現、秋葉大権現、金毘羅大権現、近年これに不動明王、白山妙理大権現を加えて五神をを祀ってある。一般には金毘羅さんとあがめられている。鎮守堂の建立は、明らかではないが寺の創建時代に建立されたものであると言われている。
文化13年2月10日(1816年)宗英寺23世青山太慶和尚再建。御祭神の木札裏面に書かれている。 石坂供養等元治2年3月(1865年)造立。手洗鉢元治2年3月。明治35年(1920年)再建発起人 鈴木善正 再築資金積立講で再建 大工棟梁 三堀栄之助奉献 金毘羅大権現の大幟が奉納されている。
昭和47年の改築。昭和47年1月荒廃した社殿及び屋根の改築が宗英寺住職によって提案され同年11月2日檀信徒の協力で工事施工が行われた。
そして、44年後の平成28年6月に護持会で改修工事が行われ、同年12月3日に完了しました。この時の工事内容は屋根の銅板葺き替えと基礎をみかげ石で囲んだ。
雑記  東急電鉄田園都市線市が尾駅から北西へ3.1kmの所にある。

 神社庁包括下に無いお社とは判ってゐたが、国土地理院の地図には神社記号があるので訪れた。単立の神社ではないのは訪れて判った。
 宗英寺は、新編武蔵風土記稿巻之八十七 上鉄村の条に載ってゐる。開山元和三年(1617)、長谷寺の隠居寺の性格を持っていたらしく身分の高い人の訪れもあった(1)、といふ。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

宗英寺は当社に向って左手すぐの所にある。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

社殿正面

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

社殿内

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

階段上から下を望む。
写真1では緩い坂に見えるが、結構な角度。

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

力石
石段を登り切った左手にある。
台座(写真の反対側)には次の様に刻まれてゐる。
萬助力石
文化・文政(江戸時代)の頃 當鉄町の住人にして力萬助と称されし村谷萬助が江戸往還の途多摩川河畔より五里の道中を一人方に負い當山鎮守堂に奉納せしものなり爾来當地の若者達が角力を競いし謂れあり
茲に祖先の威徳を偲び台座を築き之を安置する者也
 維持 昭和五十一年十月吉日
萬助四代子孫 村谷留吉建之
當山丗九世代


写真7
写真7 拡大 (1280×960)

堂への登り口の左手にある。(写真5の右上に写ってゐる)
覆屋の中には石祠がある。


出典・脚注
  1. 宗英寺HP

改訂記録
  • 令和06.03.01 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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