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杉山神社 (神奈川県横浜市青葉区千草台)

参拝日 令和3年2月24日(水)
作成日 令和3年9月4日(土)
改訂日 令和6年2月28日(水)
 
よみ  すぎやま じんじゃ  
所在地  横浜市青葉区千草台 17-2
  (35度32分30.04秒 139度32分9.79秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 杉山神社
祭神  五十猛命
 相殿 素盞鳴命
    大日孁命
    豊受姫命
    大己貴命
    保食命
由緒 平成十年の「新社殿25周年記念碑」には次の様に刻まれてゐる。
杉山神社
鎮座地 横浜市青葉区千草台十七の二
御祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 素盞鳴命(すさのおのみこと) 大日霊命(おおひるめのみこと)
    豊受姫命(とようけひめのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 保食神(うけもちのかみ)
御祭神五十猛命は素盞鳴命の御子神で雨降りの時に天津樹種を持降り植林 農業を奨めた
素盞鳴命は日の神天照皇大神の石戸隠れの後追放になり出雲の八岐大蛇退治で有名である
大己貴命は大國主神の別名 國土開拓はもとより航海農漁交通医薬殖産興業百般の事物に無限の御神徳をそそがれる神である
由緒
旧村社 杉山神社
武蔵風土記稿に下谷本鎮守杉山神社と記され徳川初期の創立である
大正三年六月三日 区画社八雲神社外五社合併許可 神奈川県指令 内県第3998号
大正八年八月一日 社殿 拝殿 神楽殿等新改築
昭和二十七年十月二日 神奈川県指令第3989号を以つて宗教法人杉山神社となる
         境内坪数 575.905坪
昭和四十九年十月六日 新社殿新築落成
 平成十年九月吉日
宮司 志村幸男 書

 昭和49年の「記念碑」には次の様に刻まれてゐる。(漢字字体・仮名遣は碑文に倣った)
昭和参拾年代當地は土地所有者の協力により区画整理が行はれ著しい発展をして来ました 町をお守り下さる氏神様があまりにも荒れ果てて居り、心ある人は憂慮されておりました、町にお金が入ったら真先に神社の建替をしたいと地域の人全部が思っておりました折、共有財産であった学校山が、関係者の協力により横浜市に売却され、そのお金を大事に意義あるように使いたい、そうするには杉山神社の建替をして、何時迄も當地域が豊に栄え行くことを願い、百貳拾八名の所有財産のお金の全面的なる協力により、現在迄共有財産として残してくださった先祖の方々に心より謝意をのべ意に添えうものと判断し、尊敬の心を呼起しながら、参拾壹名の建設委員を組織し、總意により参年の歳月と總工費九阡萬圓を財産権利者の方が奉納され、これを記念するための遷宮式の吉日に建立する
 昭和四拾九年拾月六日
 以下略 (約百三十の氏名)

 神奈川県神社誌(昭和57年刊)には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 創立年代不詳であるが、新編武蔵風土記稿に、下谷本(しもやもと)村鎮守とある。徳川初期の創立と伝える。大正三年六月三日、無格社八雲神社外五社を合併、社殿、拝殿、神楽殿等を氏子中の寄進により改築造営した。後昭和四十九年、総工費一億三千万円をかけて現在の社殿を新築、遷座。爾来下谷本町産土神として又産業の神として崇敬篤く、現今夙に社運隆盛である。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(2)。( )内は割注部分。
杉山社 (除地一段村ノ巽ノ方ニアリ石階十七級ヲ登リ上ニ鳥居ヲ立覆屋三間ニ三間半艮向ナリ内ニ小祠ヲ置神体ハ不動木ノ立像長一尺五寸許村ノ鎮守ニシテ安養寺ノ持ナリ巳下三社モ同寺ノ持例祭ハ昔ヨリシテ月日ヲ定メス)  末社牛頭天王祠 (本社ニ向テ左ニアリ)
雑記  東急田園都市線藤が丘駅から東へ0.8kmのところにある。

 写真は載せてゐないが手水舎があり、置かれてゐる手水石には「明治三十三年九月○○ 武蔵國都築郡中里村 大字下谷本惣氏子中」とある。(○○は造宮か?)

 当地の名称は、『昭和43年の土地区画整理事業の施行に伴い、下谷本町の一部から新設した町。古くは都筑郡下谷本村であった。明治22年の市町村制施行の際、寺家村・鴨志田村・成合村・上谷本村・鉄村・黒須田村・大場村・市ケ尾村・北八朔村・西八朔村・小山村・青砥村・下麻生村飛地と合併して中里村大字下谷となり、昭和14年の横浜市へ編入の際、下谷本町となる。平成6年の行政区再編成に伴い、緑区から編入。町名は植物名から採った町名の一つとして名付けた。』(3)と云ふ。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

社殿正面

社前の灯籠には「昭和五拾八年拾弐月二日 忠魂碑保存会」と刻まれてゐる

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

向って右:忠魂碑 日清・日露の戦役陣没者の階級と氏名が刻まれてゐる、大正八年四月建設、在郷軍人中里村分會。なお、第二次世界大戦戦没者九名が追刻されてゐる。

向って左:慰霊碑 表に氏名、碑背に碑文。碑文は以下の様。
満州事変に端を発しその後支那事変から第二次世界大戦にまで発展したわか国未曾有の難局に勇躍挺身し不幸陣没せられた百八一余名の英霊に対しては全国民と共に郷土骨肉の等しく哀悼の情を禁じ得ないところであります 此の上は誓って新日本建設に邁進し永く英魂を安んずるの覚悟がなければなりません 茲に中里地区各町の総意によつてこの碑を建て謹んで平和の礎となられた諸英位の偉大な勲功に感謝し貴重な犠牲に熱淚を捧げて御冥福を祈るものであります
  昭和三十五年八月十五日
    中里地区慰霊碑建設委員會



出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.67
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之八十六 下八谷村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  3. 令和3年8月30日閲覧 横浜市web 青葉区 千草台

改訂記録
  • 令和06.02.28 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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