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劔神社 (横浜市青葉区荏田町)

参拝日 令和3年10月16日(土)
作成日 令和4年5月15日(日)
追記日 令和6年2月15日(*)
よみ  つるぎじんじゃ
概要  当社(劔神社)は横浜市青葉区荏田町に鎮座する。創建年代不詳。大正初期に宿谷戸赤城社 小黒谷戸明神社同八幡社 柚木谷戸熊野社 渋沢谷戸十二神社の四社を合祀した。社殿は昭和60年に改築された。  
所在地  横浜市 青葉区 荏田町(えだちょう)822
  (35度33分20.29秒 139度33分45.10秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 劔神社
祭神  素盞嗚尊 (すさのおのみこと)
由緒  境内にある碑には次の様に刻まれてゐる。
剱神社社誌

新編武蔵風土記稿は当社について曰く
「村の中央字榎木谷にあり剱明神と号す当所の総鎮守なり 本地不動の像 今は別当観福寺に安置せり本社に上屋を設く云々」また伝説に曰く「昔陸奥国より炭を商うもの鎌倉へ往来して 鍛治のもとへかの炭を売ること年久しければ鍛治もかの商人が来ることを謝して己が作りたる刀一口を贈れり 商人喜びてこれを携へ国へかえらんとしてここをすぎ 泉谷の辺りにとどまりて 路のつかれをしばしやすめんといこいしに喉のかれたりしかばありあう泉を掬して呑けるに 酒に酔いしごとく 覚えず倒れ伏したりしを 側なる松の木の上より大蛇ねらいよりて呑んとす 時に携えたる 刀自ら抜き出て蛇を惨殺しけるにそ かのもの危き命をたすかりしとなん よりて剱を祀りて剱明神と号す 云々」と この伝説は八俣の大蛇退治の伝説に類似し草薙剱を彷彿せしめるとともに 祭神を素戔嗚尊として崇めていることなどからして開拓神ないし農業神として祀られ鎌倉時代の創建になるものと云われている
 かって当地には宿谷戸赤城社 小黒谷戸明神社同八幡社 柚木谷戸熊野社 渋沢谷戸十二神社の五社の谷戸宮が鎮坐し 四谷戸が年番にて祭礼を執行うを常とした
 その後大正三年これら四谷戸五柱の大神を当社に合祀し同十一年当社は神饌幣帛供進社に指定されたのである 現存する拝殿は 明治二十七年に 奥社は昭和四十六年に各々建立されたものである
碑背には、奉納者名と昭和六十一年十月吉日、と年記があり、年中行事や宮司他の主立った人物名が記されてゐる。

 神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる(1)
創建年代は不詳であるが、寛文十二年二月、文化四年に社殿の改築がなされた。大正三年十二月十日村内にあった無格社赤城神社外五社を併合し、同十年七月五日神撰幣帛料供進社に指定された。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(2)
八幡社 (見捨地二十四歩村ノ西字小黒谷ニアリ小社ナリ棟札ニ元和ノ文字カスカニ見エソノ頃ノ勧請ナルニヤ神体ハ木像ニテ長一尺許社ノ下ニ石二ツ三ツヲオケリソノ下ニ酒瓶ノコトキモノアリ口ノ径六七寸アリト云ソノ内ニ矢ノ根ヲ盛ルコレ義家朝臣ノ矢根ナリトモ又ハ荏田源三ト云シモノゝ持シナリトモイヘリ按ニ荏田源三ハ源義経ニツカヘシ人ニテ源平盛衰記等ノ書ニモソノ名ミヱタリシカラハ此所ノナルヘシ社ノ背後ニソノ人ノ居城ノ跡ト云アリタレバモト源三カ守護トセシ像ナリト云観福寺ノ持ナリ)
赤城社 (見捨地九畝村ノ西赤田谷ニアリ小社ニテ南向ナリコノ所山ノ半腹ニテ松樹タナシケリ勧請ノ年代ヲ伝ヘスコレモ観福寺ノ持ナリ) 末社三峰社 (社ニ向テ右ニアリ)
剱社 (村ノ中央字榎木谷ニアリ剱明神ト号ス当所ノ惣鎮守ナリ社伝アリ奇怪ノ説ナレトシハヲココニノス昔陸奥国ヨリ炭ヲ商フモノ鎌倉ヘ往来シテ鍛冶ノモトヘカノ炭ヲ売ルコト年久シケレハ鍛冶モカノ商人カ来ルコト年ヲヘテオコタラサルコトヲ謝シテ己カ作リタル刀一口ヲ贈レリ商人ヨロコヒテコレヲ携ヘ国ヘカヘタントシテ此所ヲスキ泉谷ノ辺リニトトマリテ路ノツカレヲシハシヤスメントイコヒシニ喉ノカレタリシカハアリアフ泉ヲ掬シヲ呑ケルニ酒ニ酔ヒシカコトク覚へズ倒レ臥シタリシヲ側ナル松ノ木ノ上ヨリ大蛇子ラヒヨリテ呑ントス時ニ携ヘタル刀自ラ抜出テ蛇ヲ惨殺シタルニソカノモノ危キ命ヲタスカリシトナンヨリテ剱ヲ祀リテ剱明神ト号スト云々コノコト世ニママツタフル話シニテイトオホツカナキコトナリ本地不動ノ像今ハ別当観福寺二安置セリ本社ニ上屋ヲ設ク五間ニ四間半東向ナリ前ニ石ノ鳥居ヲタツ又水田ノ間二三丁ヲヘタテテ木ノ鳥居アリ古ハココマデモ大門前ノツツキナリシト云此等ニテモ境内ノ広カリシコトシラル例祭ハ九月二十七日橘樹郡平村ノ神職来リテ祭事ヲ行フヲ定式トス)
熊野社 (見捨地四畝村ノ中央ニアリ小社ニテ東向ナリ例祭年々十一月十五日観福寺ノ持ナリ)
十二社 (見捨地八畝許村ノ南字渋沢谷ニアリ小社ナリ前ニ鳥居ヲタツ例祭ハ九月十八日是モ同寺ノ持ナリ)
神明社 (見捨地八畝許村ノ西字小黒谷ニアリコレモ小社ニテ前ニ鳥居ヲタツ例祭ハ七月一日ニテカノ平村ノ禰宜来リテソノ事ニアツカレリ) 末社御嶽社 (社ニ向テ左ニアリ)
雑記  最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン(3号線)中川駅で当社から北東(40°)へ1.0kmの所にある。東急田園都市線江田駅は当社から西北西(285°)へ1.1kmの所にあるが、道程は1.5kmほどある。

 本日は、当社を含めて四社を巡った。最初は当社。雨がちな天気だった。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 鳥居は平成十二年に氏子中により奉納された。
 鳥居前にある狛犬は、台石に昭和二十三年十月七日の年記がある。

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 参道

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 階段を登り切った所。右手に手水舎の一部が写ってゐる。
 手水石は文化九壬申九月吉日の年記ほか、名主の四氏名、世話人名、別当観福寺住祐応代の名が刻まれてゐる。また灯籠一対(火袋は無い)があり文化四丁卯年李秋・願主若者中とある。

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿(正面)

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿(斜め前から)
 劔神社改築記念碑は昭和六十年十月吉日とあり、

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 社殿(側面)

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 社殿前から参道の階段方を望む


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.61-62
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之八十七 荏田村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.02.15 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。概要欄を設けた。

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