由緒
神奈川県神社庁webの当社の頁には次の様に載ってゐる(1)。
勧請年代は不詳であるが、昔から上和泉の八幡さまという呼称以外に「織部八幡」と称しており、元亀年中に汲沢の郷土森織部義秀が勧請したという伝承がある。
森織部義秀の後裔である繁春が明治13年(1880)に記した「汲沢往来」の森家の項に「寛文年中、松平氏より和泉田地13石拝領」と記されている。天正期に何かの事情があって徳川への領地委譲が出来なかったのであろう。
いずみ野住宅の開発前は主水分(もんどぶん)集落の一番上手の、和泉川に面した豊かな森を背景に持つ丘陵の末端に鎮座していた。境内からは先土器時代の礫郡や石斧が多数発見されており、この時代から人の住み易い環境だったことが分かる。
享保13年に社殿を再興したという棟札があったが、平成8年8月の不審火で社殿とも焼失してしまった。焼失した社殿は大正6年10月、当時の氏子23軒の赤誠により建立されたものであった。
現在の社殿は平成9年9月に新築された。
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神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる(2)。
由緒沿革 勧請年代不詳であるが、享保十二年社殿再興の棟札が存する。俚伝に、往古から「織部八幡」と称しており、元亀年中、汲沢の郷士森織部義秀が勧請したという。現在の社殿は大正六年十月、氏子二三名の寄附によって再興されたものである。
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註
| 享保十三年:1728 、 元亀年中:1570〜1573
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新編相模国風土記稿の和泉村の条には、五社が記載されてゐる(3)。八幡宮が当社だらうか。
八幡宮 密蔵院持 下同
山王社
神明宮
鯖明神社
第六天社
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| 雑記
| 最寄駅は、昭和51年に開業した相模鉄道いずみの駅で、当社から東南東(116°)へ0.4kmのところにある。
当社の東側に大規模修繕中の低層3階建て4棟がある。集合住宅(所謂マンション)管理組合による掲示によると、その敷地地下は遊水池となってゐて、貯留量4.7万m3、水深3.8m、池底面積1.3万m2と云ふ。昭和51年改訂の地理院地図には水色に塗られてゐる。遊水池上に、平成19年前後に建物が造られたやうだ。
境内の鐘にある「主水分」は、新編相模国風土記稿には小名として「主水分」の記載がある(3)。国土地理院地図の明治39年測図には主水分(もんどぶん)の記載があり、昭和51年二改には記載が無くなってゐる。
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