神社訪問記HP神奈川県横浜市 > 神奈川区

熊野神社 (横浜市神奈川区東神奈川)

参拝日 令和2年6月3日(水)
作成日 令和3年1月24日(日)
改訂日 令和6年3月12日(火)
 
よみ  くまの じんじゃ  
所在地  横浜市神奈川区東神奈川 1-1-3 (35度28分32.34秒 139度38分2.46秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 熊野神社
祭神  国常立尊 ( くにのとこたちのみこと )
 伊弉諾尊 ( いざなぎのみこと )
 伊弉冉尊 ( いざなみのみこと )
由緒  元 郷社

 拝殿に向って左前に由緒の掲示がある。(文字が薄れて一部が読取れなかった)
神奈川 熊野神社(熊野権現)御由緒

旧社格 郷社(明治十七年四月四日列格)・鎮座地 横浜市神奈川区東神奈川一丁目一番地(武蔵国橘樹郡神奈川宿)
御祭神(主祭神) 国常立尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊
   (合祀神) 天照皇大神、素戔嗚尊、大已貴命、少名彦名命
        武御名方命、五十猛命、大物主命、倉稲魂命、○○命 御玉神

御由緒概要
当社の御創建は、寛治元年六月十七日(1087年)醍醐三宝院宮勝覚僧正が紀伊国(和歌山県)牟婁郡熊野に坐す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社の○霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮主として熊野三社大権現と号し奉る。
口碑によれば、後三年の役に源義家公社参せられ帰途再び当地当地ニ立寄られこの地を幸ヶ谷と名付けられたと伝へられる。その後応永五年山賊等のため社祠を焼かれ僅に草祠ばかりが存していたが、明応三年六月(1494年)上田蔵人が普請奉行となり、宏壮なる社殿が再建せられた。また、永正七年六月二十日(1510年)権現山合戦の砌、兵火に罹り烏有に帰してしまった。次で天正五年六月(1577年)時の別当恵賢僧都等が相はかり社殿を建立し奉る。
天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に○し秘法を修し奉りしことなど、徳川家との関係深く別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牌(おふだ)を献上し奉ったと伝へられる。その後、正徳二年六月(1712年)山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ遷し奉り、旧地には小祠を安置し、社地三反八畝十歩を有していたが明治四年之を上地す。慶應四年一月七日(1868年)神奈川大火により烏有に帰したが、逐次再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ明治四十年四月神饌幣帛料供進社に指定せらる。昭和十一年八月御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。昭和二十年五月二十九日戦災により焼失、剰え境内地をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ツ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉祀す。同二十七年八月宮神輿を奉製、その後接収解除となり、再建復興に努め、同三十八年八月現社殿を完成遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月竣工奉祝祭を執行した。その後四十一年十一月、地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要を誌し奉る次第であります。
(宮司 照本 力 記)

 神奈川県神社庁誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 当社の御創建は寛治元年(一〇八七)六月十七日醍醐三宝院宮勝覚僧正が紀伊国牟婁郡熊野坐大神を分祀、神奈川郷の鎮守として権現山(幸ヶ谷山上)に勧請し熊野三社大権現と称した。源義家公東征の砌武功を祈らせ給う。応永五年正月山賊等のため祠宇焼失、明応三年六月上田蔵人政盛普請奉行となり宏荘なる社殿が再建せられた。後永正七年六月権現山合戦により鳥有に帰す。天正五年近郷の諸人、時の別当恵賢僧都と相計り社殿を建立、天正十年徳川家康御坂黒駒の戦に武運を祈らせられ、又上杉謀叛降伏の法を祈請、共に効ありしによって武州小机領神奈川郷の内御朱印高拾石を賜った。正徳二年(一七一二)現地に遷し奉り、旧山上には本宮として小社を安置し、社地三反八畝十歩を有していたが明治四年六月上地。慶応四年正月七日駅中の大火に類焼した。その後、社殿、神楽殿、神輿庫等を整備、明治六年村社に、同十七年四月四日郷社に、同四十年四月神饌幣帛料供進社に指定された。昭和十一年八月御鎮座八百五十年祭を執行した。同二十年五月二十九日戦災により焼失、剰え境内地を米国駐留軍により接収使用せられたるに及び西神奈川町に遷し奉り、鋭意御再建に努め、同三十八年八月現社殿を再建、その後鳥居、玉垣、氏子会館、戦没者慰霊碑を建設、同四十八年再建十周年記念事業として舞殿、社務所の増改築を完成し、旧観に復するを得た。

 新編武蔵風土記稿には次の様にある(2)。( )内は割注部分。
熊野三社 (本社一間に九尺拝殿二間半に四間イツレモ巽向ナリ古ハ青木町ノ中程ナル艮ノ方ノ丘ニアリシヲイツノ頃カ当寺ヘ移セリ例祭ハ年々六月十五日ヨリ同キ十八日マテナリ)
雑記  東海道本線(京浜東北線)東神奈川駅から南南東へ0.3km、京急線京急東神奈川駅から南南西へ0.2kmの所に鎮座してゐる。
 進駐軍に接収された後に遷座した二ツ谷町共有地とは、いま二ツ谷稲荷神社のある所(所在地はここ(いつもnavi))だらうか。現鎮座地から北北西へ0.4km、東海道線の北側で、東神奈川駅から直ぐ近く。

 最寄の京急東神奈川駅は、令和2年3月までは「仲木戸駅」と称した。仲木戸の名は、かつて神奈川御殿があった時に人の往来を管理するために設けた木戸に由来すると云ふ。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭・鳥居
写真1 拡大 (1280×960)

社頭・鳥居

鳥居は昭和38年に奉納されたもの。
柱の陰に社号標があり、「熊野神社」と刻まれてゐる。昭和三十九年八月奉納。
狛犬は、嘉永年間 鶴見村石工 飯島吉六作 と表記した札が立ってゐる。この狛犬は、二度の大火に遭ったり、地震で二度落下したり、果ては進駐軍に埋められたり災難に遭ってきたといふ(3)

写真2 拝殿正面
写真2 拡大 (1280×960)

拝殿正面

写真3 御本殿
写真3 拡大 (1280×960)

御本殿

写真4 合祀社
写真4 拡大 (1280×960)

合祀社

金刀比羅社・大鳥社・稲荷社・香取社・鹿島社 と札が貼られてゐる。

写真5 御神木
写真5 拡大 (960×1280)

御神木 社殿に向って右手奥にある。

札が立てられてゐて次の様に記されてゐる
御神木 公孫樹(いちょう)
樹齢四百年(昭和四十八年 横浜市名木古木指定)
慶応四年(1868年)神奈川大火 昭和二十年(1945年)戦災に焼失したが見事に再生し 毎年秋にはギンナンがみのり 俗に「火防のイチョウ」として広く親しまれている   社務所
樹皮や洞内表面が炭化して痛々しい。

写真6 戦没者慰霊碑
写真6 拡大 (960×1280)

支那事変 大東亜戦争 戦没者慰霊碑。鳥居をくぐって左手、合祀社の隣ににある。

神奈川県知事 内山岩太郎書、背面には、昭和四十一年十一月吉日建之、とある。碑を囲む三面には戦没英霊銘が刻まれてゐる。

御朱印
御朱印 拡大 (489×640)


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社庁誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.14
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之七十 神奈川町 十番町 の条(金蔵院の項の中) (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  3. 令和3年1月16日閲覧 「とうよこ沿線」写真が語る沿線 No.13 横浜大空襲から22年、神奈川地区(岩田忠利)

改訂記録
  • 令和06.03.12 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 神社庁web神社情報のリンク修正。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)


inserted by FC2 system