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| 神明宮 (横浜市神奈川区東神奈川)
参拝日 令和2年6月3日(水)
作成日 令和3年1月24日(日) 改訂日 令和6年3月12日(火) |
よみ | しんめいぐう | |||||
横浜市神奈川区東神奈川 2-34-6 (35度28分42.65秒 139度38分12.91秒)
地図:地理院地図(ズームレベル15) いつもNAVI(ズームレベル13) | ||||||
地図 | 参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
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HP等 | 神奈川県神社庁 神社情報 神明宮 | |||||
祭神 | 大日孁尊 ( おおひるめのみこと )
素盞嗚尊 ( すさのおのみこと ) | |||||
由緒 | 元 村社
社頭の名所ガイドパネル「神奈川宿歴史の道」(平成元年 横浜市)には次の様に記されてゐる。
神奈川県神社庁誌には次の様に載ってゐる(1)。
境内の「村社碑」には次の様に刻されてゐる。
新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(2)。
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雑記 | 京急東神奈川駅から北東へ0.3km、東神奈川駅から東北東へ0.4kmの所にある。
神奈川の名の元となったといふ上無川(かみなしがわ)は、当社から南西方にある神奈川小学校の北東側道路が同川のあった場所で、明治期の地図を見ると海岸にはいかにも河口とみえる地形がある。尤も、「かながわ」の起源は複数の説があるやうだ。 「横浜大火」で検索すると慶応二年の「豚屋火事」ばかりが出てくる。平成26年に岩亀稲荷社にお参りして承知してゐたが、関内の大火は確かに横浜にとっては大事だった。 「大火 神奈川区」で検索して得た、横浜市のweb頁「神奈川区の歴史・主要事業」から抜粋・一部追記すると次の様。 ・元禄16年(1703) 元禄地震 ・天明6年(1786) 神奈川宿大火、300軒焼失 ・天保2年(1831) 神奈川宿大火、1200軒余焼失 荒宿町から青木町へ ・安政2年(1855) 安政大地震(安政江戸地震:神奈川の推定震度6、前年の安政東海地震:神奈川の推定震度5-6)) ・慶応4年(1868) 神奈川宿大火 西ノ町から生麦村へ ・明治3年(1870) 青木橋(神奈川陸橋)完成(鉄道の敷設がされて、明治5年開業) ・明治34年(1901) 神奈川町が横浜市に合併 ・明治38年(1905) 京急線(当時は京浜電気鉄道)品川-神奈川開業 ・大正12年(1923) 関東大震災 ・昭和4年(1929) 上無川埋立てられた ・昭和20年(1945) 横浜大空襲 神奈川宿は、「神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川(現滝の川)が流れていた。江戸側の新宿村に隣接する江戸見附から順に並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町と続いて滝野川を渡り、滝之町、久保町、宮之町、元町、七間町、下台町、上台町、軽井沢といった町並みが続いていた。なお、本陣は石井本陣が西之町に、鈴木本陣が滝之町にそれぞれ置かれ」(3)てゐたと云ふ。 当地は荒宿町なので天保2年の大火に罹ってゐたかは不確かだが慶應4年の大火には罹ってゐたと想像できる。当社に限らず、神奈川宿の神社は災難続きだったやうだ。 |
写 真 (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます) |
写真1 拡大 (1280×960) 鳥居ヲくぐって境内に入ると直ぐ左手に手水舎があり、「金生水」と陽刻されてゐる。大清國源静波敬書、ともある。 続いて、「村社碑」、建設委員・協力委員の名を記した區劃整理完成祝の碑(昭和三十四年十月十日の年記あり、區劃=区画)、献樹の碑(檜と杉を100株、昭和三十二年の年記あり)が並んでゐる。 |
写真2 拡大 (1280×960) 社殿は、社地の広さに比べ小さく意外感があった。社務所の建物は新しい。 |
写真3 拡大 (1280×960) |
写真4 拡大 (1280×960) |
出典・脚注
改訂記録
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