神社訪問記HP神奈川県横浜市 > 神奈川区

笠䅣稲荷神社 (横浜市神奈川区東神奈川)

参拝日 令和2年6月3日(水)
作成日 令和3年1月24日(日)
改訂日 令和6年3月12日(火)
 
よみ  かさのぎ いなりじんじゃ  
所在地  横浜市神奈川区東神奈川2-9-1 (35度28分48.80秒 139度38分15.83秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 笠のぎ稲荷神社
 Wikipedia:笠䅣稲荷神社
祭神  宇迦之魂命 ( うかのみたまのみこと )
 明治天皇 ( めいじてんのう )
 日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
由緒  元 村社

 境内の掲示には次の様に記されてゐる。
笠䅣稲荷神社
鎮座地 神奈川県横浜市神奈川区東神奈川 2-9-1
御祭神 宇賀之魂命  [相殿]明治天皇 日本武尊
御神徳 御祭神の宇賀之魂命は「稲倉魂命」とも書き、或いは「保食神」とも申して、稲の豊穣を司り、食物を守護する神様です。我が国は往古より農業国であるため、人々は米を主食として生活し、篤く農耕の神様である稲荷神社を信仰してきました。また工業や商業が発達すると、稲荷神社の神徳は商売繁盛や家内安全へと広がり、衣食住のすべてを守護する神様として信心されるようになりました。稲荷信仰は流行神(はやりがみ)として時代と共に幅広く普及していき、現在稲荷神社は全国で最も数多い神社として崇敬されています。
由緒沿革 天慶年間(938〜947)に、淳和天皇勅願所浦島院勧福寿寺の僧侶が、隣域の山腹(稲荷山)に社殿を建立し、伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、同寺の守護神・付近一帯の産土神として崇敬を集めていました。文永十一年の蒙古来寇の折には、鎌倉の執権北条時宗が菊一の銘刀と神鈴を奉納して、国家の安泰を祈願したと伝えられています。
戦国時代に兵火に罹災してしまったものの、永禄二年九月十九日に再興なって大祭を行ない、元禄二年九月十九に日には稲荷山の中腹より山麓に遷座する運びとなりました。これより神威が益々加わり、社前を通行する者の笠が自然と脱げて地に落ちたことから、「笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神」と称するようになり、後に別当能満寺の阿闍梨が「笠脱」の一字を「䅣」と改め、「笠䅣稲荷大明神」と改称しました。
明治二年には旧社地が京浜間の鉄道敷地用地に接収されたため現在地に移り、更に霊験あらたかとなって、同十七年九月二十五日「村社」の社格に列し、大正十年九月十七日「神饌幣帛供進社」に指定されました。
大正十二年の関東大震災により社殿が半壊に及び、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲には、社殿・神宝類の悉くを焼失する憂目を見たものの、終戦後いち早く仮社殿を再建しました。昭和五十四年十二月一日に新しい形式の社殿が完成すると共に、厳かに遷座祭が斎行され、平成元年の「御社殿造営十周年記念大祭」には、社前に玉垣が完成するに至りました。
例祭日 八月八日・九日(近年は八月八日・九日に近い土曜日と日曜日)
境内社 古峯神社・祖霊社・庚申塔・地神塔・日露戦役記念碑
板碑(鎌倉時代の慰霊碑) [横浜市指定有形文化財]
特殊神事 節分追儺式(ついなしき)(二月三日) [横浜市指定無形民俗文化財]
特殊信仰 古くよりカサノギ稲荷さんにお参りすると、カサ(性病・婦人病)が治るという特殊な伝承があります。病気にかかった女性は土団子を作って神前に供え、お百度を踏んで祈願をし、そして霊験を得て病気が治ると、粢(しとぎ)団子を作って御礼参りをするという慣習が残っていて、病気平癒の御利益にも秀でています。
笠䅣稲荷神社

 社頭にある「神奈川宿歴史の道」の碑には次の様に記されてゐる。
笠䅣稲荷神社
 笠䅣稲荷神社は、社伝によると天慶年間(938〜947)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北条時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(1689)に山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神と称された。
 また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に粢団子(ひとぎだんご)を供えるという。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(1)
笠脱稲荷神社 (新町ノ裏稲荷町ニアリ九尺四方巽向ナリ前ニ鳥居ヲタツ相伝フ昔土人笠ヲ戴キテ社前ヲ過ルトキハオノツカタヌケテ地ニ落ルト云故ニコノ名アリトヲホツカナキ説ナリ)
雑記  東海道本線(京浜東北線)東神奈川駅また京浜急行電鉄(株)京急東神奈川駅から北東へ0.4kmの所にある。京急線の神奈川新町から西南西へ0.2km余の所にある。

 京急電車に乗ってゐると車窓直ぐ近くに緑豊かな境内、鳥居や社殿が見える。横浜駅から乗ると途中で降りる機会が無かったので、まだ参拝してゐなかった。
 東海道本線の新橋─横浜間の開通は明治五年、京急のこの区間の開通は明示38年なので、明治二年に社地を移ったといふのは東海道本線敷設にかかるものと考へられる。境内北側は、現在は京急の車両基地となってゐるが、当初は東海道線が通ってゐた。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭
写真1 拡大 (960×1280)

社頭

社号標は、明治神宮宮司 高澤信一郎謹書 とある。背面には、平成元年三月二日とある。

写真2 社殿正面
写真2 拡大 (1280×960)

社殿正面

写真3 境内社
写真3 拡大 (1280×960)

境内社
中央の覆屋内には、高さ172.5cmの板碑がある。鎌倉時代末期から南北朝時代初期の作とみられると云ふが、風化は少ない。

写真4 日露戦役紀念碑
写真4 拡大 (960×1280)

日露戦役紀念碑
背面には「明治三拾九年9月奨兵會」とある。

写真5 手水石
写真5 拡大 (960×1280)

手水石
碑には、昭和四十年八月吉日建立、とある。

御朱印
御朱印 拡大 (452×640)


出典・脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』 巻之七十 神奈川町 耕地の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.03.12 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 神社庁web神社情報のリンク修正。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)


inserted by FC2 system