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一之宮神社 (横浜市神奈川区入江町)

参拝日 令和2年6月7日(日)
作成日 令和3年1月30日(土)
改訂日 令和6年3月12日(火)
 
よみ  いちのみやじんじゃ  
所在地  横浜市神奈川区入江町 1-13-6 (35度29分12.92秒 139度39分1.25秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 一之宮社
祭神  素盞嗚命 (すさのおのみこと)
 保食命   (うけもちのみこと)
 事代主命 (ことしろぬしのみこと)
 面足命   (おもだるのみこと)
 海津見命 (わたつみのみこと)
 水速廼女命 (みずはやのめのみこと)
 塩土老命 (しおつちおじのみこと)
 船玉姫命 (ふなだまひめのみこと)
 表筒男命 (うわつつのおのみこと)
 豊玉姫命 (とよたまひめのみこと)
 瀬織津姫命 (せおりつひめのみこと)
由緒  元 村社
 境内の由緒掲示には次の様に記されてゐる。
横浜一之宮神社由緒

御鎮座 横浜市神奈川区入江一丁目十三番地
御祭神 素盞嗚尊(建速須佐之男尊)を中心に
    事代主命(西宮神社)
    保食命(田甫、東浜、仲浜、西浜等の各稲荷神社)
    面足惶根命(第六天社)
    水速迺売命(水神社)
    外の神様をお祭りして居ります。
歴史
 子安の地は、神之木台遺跡、大口坂遺跡、その他があることからも推察されるように、縄文時代の昔より人間にとって住みやすい環境が与えられた所でした。我々の祖先は、海や山から自然の恩恵を受けて生活していたことでしょう。特に、この場所は、現在でも海を望むことの出来る小高い丘ですが、近代に入り、海岸線を埋め立てるまでは、もう少し高い山でした。東海道沿いに展開した子安の浜の漁師にとって、漁場を定める目印となっていたそうです。当然、漁師の信仰を集め、また、東海道沿線ということもあり古くから小祠を以ってお祭りをしていたようです。
 その後、永禄四年(紀元2221年・西暦1561年)九月一日第百六代、正親町天皇の御宇、武蔵国(埼玉県、東京都台部分、神奈川県東部)の一の宮、元官幣大社氷川神社(埼玉県大宮市鎮座)の分霊を現在地に勧請したところから「一之宮大明神、一之宮明神社」等と称されて居ります。
 江戸時代、徳川幕府の官撰地誌の最初である「新編武蔵風土記稿」にも収録され、白髭老神の伝説などもあり、連綿と祭祀が今に続いて居ります。
 伝説の一例
 元禄三年(西暦1690年)七月、村内に疫病が蔓延した折、入江川畔に白衣長髭の翁が現われ、「吾は一之宮大明神だが、近来氏子村民が敬神の念乏しく、社殿は大破し、祭祀を怠っているために災禍が横行するのである。以降、祭祀の礼を厚くすれば疫病はなくなる」と告げた。そこで、神楽を奉じ、神拝の式を行うと忽ち疫病がなくなったという。その他いくつもあります。
 平成六年八月吉日
横浜一之宮神社奉賛会
寄贈者(株)清水建築 清水勇一

 神奈川神社庁誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 永禄四年(一五六一)九月一日武蔵国一宮(元官幣大社)水川神社を勧請、一之宮明神社と尊称、武蔵風土記にも、不断の由緒を有し、古伝説も数々あり四百余年の幾春秋を子宮町全町の守護神として仰がれ、この間累次の災害、震災を蒙ったが、再建、改修が行われた。戦後、平和条約締結記念、開港百年記念、御在位五十年記念として、隣接地を購入拡張整備を行い、昭和二十六年四月一之宮幼稚園を開設現在に至る。同三十七年八月御鎮座四百年を記念し現社殿を造営、同年本社氷川神社御神紋(八雲)の使用を允可された。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(2)。( )内は割注部分。
子安一之宮神明社 (岳ノ上ニアリ数十階ノ石階ヲ登リ社前ニ至レリ本社ハ三間ニ四間半西南ノ方ニ向フ本地ハ○十一面観音長二尺五寸立像作詳ナラス又鎮座ノ年歴来由モ伝ヘスモト子安一村ノ頃ヨリノ鎮守ナレハ今ニ至リ三村共ニ当社ヲ以テ鎮守トセリ石階ノ下ニ石ノ鳥居ヲタツ九月朔日ヲ例祭トス別当ヲ遍照院トイヘリ)
 末社三峯社 (本社ニ向テ右ニアリ小祠)
 菴 (本社ノ側ニアリ昔ハ作リモ大ナリシヨシ今ハ荒廃シテワツカノ草庵ナリ本尊阿弥陀ココニ起立セシ年歴詳ナラス)
雑記  東海道線(京浜東北線)新子安駅から西へ0.3kmの所にある。参道は100m余あるので、社頭へは0.4km余となる。

 当社参拝後、杉山神社へ向ったが、途中、「国鉄鶴見事故遭難者供養之塔」がある。石柱標には「昭和四拾貳年十一月九日 国鉄鶴見事後遺族会建之」とある。事故は三本の列車により発生し、死者161名、重軽傷者120名の大事故で、昭和38年11月9日21時40分ころに発生した(3)

 本日は子安から生麦辺りの神社巡りで五社をお参りした。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭
写真1拡大 (960×1280)

社頭

写真2 鳥居と並木
写真2 拡大 (1280×960)

鳥居と いちょう並木
鳥居は、柱に「奉献 子安浜漁業組合」「御大典紀念 昭和三年十一月建設」と彫られてゐる。
向って右側の灯籠の後ろ(写真には写ってゐない)には、「子安小学校発祥の碑」(平成十五年一月建立)が建ってゐる。
参道は途中、公道が横切ってゐる。その先に社号標「一之宮大神 横浜市長有吉忠一閣下御揮毫」(大正拾五年九月建之)がある。

写真3 社殿
写真3 拡大 (1280×960)

社殿

社前の一対の樹は、伸びすぎのやうな。
社殿は西向きで、写真右側(南側)は駐車場になってゐる。
その先には幼稚園がある。

写真4 社殿側面
写真4 拡大 (1280×960)

社殿側面

写真5 拝殿内
写真5 拡大 (1280×960)

拝殿内

扁額には「一之宮社 武蔵一之宮氷川神社宮司東角井光臣謹書」とある。東角井光臣氏は現宮司の真臣氏の父、先々代の氷川神社宮司。

写真6 境内社
写真6 拡大 (1200×410)

境内社

写真二枚をつなげた。実際の石垣はまっすぐ。初めから全体を一枚に納めておけば良かった。
手前から、稲荷社、地神塔、不明、(つなぎ目)、武蔵御嶽社、金刀比羅神社・三峯神社、愛宕社。
写真の外に棟続きの社殿があったが、社名は判らなかった。

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

戦役記念碑・忠魂碑等
    いくつもの碑がある。確認してきたのは、
  • 凱旋紀念碑 (明治二十八年の戦役、子安村出身者の所属・階級・氏名が刻まれてゐる。明治二十九年五月建立)
  • 日露戦役 忠魂碑 (6名の所属・階級・氏名が刻まれてゐる、子安村軍人慰労會)
  • 日露戦役 紀念碑 (正面に大きな碑、灯籠を備えてゐる。出征軍人氏名が所属・階級・氏名が刻まれてゐる。子安村軍人慰労會。)
  • 日独戦役 紀念碑 (大正十三年八月二十五日建之 子安町分会)



出典・脚注
  1. 『神奈川県神社庁誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.16
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之六十七 東子安村西子安村新宿村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  3. 令和3年1月26日閲覧 Wikipedia 鶴見事故

改訂記録
  • 令和06.03.12 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 神社庁web神社情報のリンク修正。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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