よみ
ろっかくばし すぎやまおおかみ
| 概要
| 当社(杉山大神)は横浜市神奈川区六角橋に鎮座する。創建は第十一代景行天皇の御代、日本武尊の東征のときと伝へがある。昭和20年に戦災により社殿燒失したが復興した。
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所在地
| 横浜市神奈川区六角橋2丁目31-23
(35度29分21.71秒 139度37分16.14秒)
地図:地理院地図(ズームレベル15)
マピオン(ズームレベル15)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西59km 南北55km
・+印:当社位置
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・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
・○印:本殿の位置
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HP等
| 神奈川県神社庁 神社情報 杉山大神
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祭神
| 大物主命 (おおものぬしのみこと)
日本武尊 (やまとたけるのみこと)
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由緒
旧 村社
境内に由緒掲示板があり、次の様に記されてゐる。
六角橋鎮守 杉山大神御由緒
御社名 六角橋杉山大神(すぎやまおおかみ)
御祭神 (主祭神) 大物主命
(配祀神) 天照大神
日本武尊
鎮座地 神奈川県横浜市神奈川區六角橋二丁目三十一番地
武蔵国橘樹郡六角橋村(六角橋町四七一番地)
旧社格 村社 (明治六年指定)
当社の御創建の年代は詳らかではないが、口碑によれば第十一代景行天皇の御代、日本武尊、東夷征討の砌此の地なる久応庵に宿らせ給い、六角の箸をもって御膳をとらせられその後元禄八年九月、当村名主八左ェ門より安藤対島守検地の際、その家人安藤伊織に差出したる文書に当社に関する事が記されている。御社殿は元禄十三年九月と、明治五年八月に再建せられ、更に昭和四年十月旧社殿を造営す、古くは境内地狭小なりしが、宝永六年又、戦後に至り、隣地を買収し現在の境域に擴張す。
明治六年村社に列せられ、昭和五年神饌幣帛供進社として指定せらる、昭和八年九月宮神輿を御奉製申し上げ祭典時には渡御の神事が行われる、昭和二十年戦災により御社殿を焼失せるも氏子崇敬者の熱誠努力により、同二十六年九月拝殿を、同三十三年八月本殿を再建し、逐次、境内の諸整備をはかり同四十八年神輿庫を新築、同四十九年玉垣を同五十年御社殿の御屋根葺替等を始め、舞殿、社務所の増改築がなされた。
六角橋全町(六ヶ町)の総鎮守として、御神徳愈々□昌にして崇□の念今に至るも浅からず。
茲に謹んで、御□□の概要を誌し奉ると共に神明の加護を蒙り、氏子崇敬者の各位の御多幸を祈念し奉る。
昭和五十二年□□□□
宮□ □□ 力 □□
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当社は、東神奈川鎮座の熊野神社が兼務してゐる。熊野神社(参拝は令和二年)に設置の由緒掲示板には『(宮司 照本 力 記)』とあり、当社の由緒掲示板も同宮司の書のやうだ。
当社と同じ日に参拝した白幡八幡神社、三枚町神明社にも照本宮司による由緒掲示板があり、氏子中との協力が良好だっと窺はれる。
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『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(2)。
由緒沿革 創建年代は詳かでないが、口碑によれば、日本武尊東夷征討の砌、この地なる大伴久応の庵に宿られ六角の御箸にて御膳をめされたので久応その御箸に神名を記し杉山大明神として祀ると。村名も始めは六角箸村としたが、畏れ多いとて六角橋と改めたという。明治六年村社に列せられ、昭和五年九月十二日神餞幣帛料供進社に指定された。同二十年戦災により焼失したが、氏子崇敬者の奉賛により逐次再建せられ、同五十年舞殿、社務所、石段等も整備せられ、六角橋全町の鎮守として崇敬されている。
境内社 稲荷社 庚申祠
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『新編武蔵風土記稿』(文政13年(1830)成立)には次の様に載ってゐる(3)。( )内は割注部分。
杉山社 (村ノ中央小高キ所ニアリ社二間ニ一間半南向キ前ニ鳥居ヲ立例祭ハ年年九月十日ナリ神奈川町能満寺ノ持) 末社稲荷社 (社ノ傍ニアリ小祠)
第六天社 (杉山ノ社ヨリ西ヘ十五間許ヲ隔テアリ東南向是モ神奈川妙仙寺ノ持ナリ)
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| 雑記
| 最寄駅は東急東横線白楽駅から東(87°)へ0.6kmのところにある。
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