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日吉神社 (横浜市 港北区 日吉)

参拝日 平成29年11月29日(水)
作成日 平成31年2月10日(日)
追記日 令和6年4月9日(火)
よみ  ひよし じんじゃ  
所在地  横浜市港北区日吉3-9-5 (北緯35度33分23.97秒 東経139度39分8.72秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 日吉神社
祭 神  天照坐皇大御神 ( あまてらしますすめおおみかみ )
由 緒  境内に由緒が大きな板に墨書されてゐる。
日吉神社御由緒
御祭神 天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)
鎮座地 横浜市港北区日吉三丁目九番五号
由緒沿革
 創立年代は不詳であるが、往古より、武蔵国橘樹群矢上(やがみ)村総鎮守として、同村北方の里俗「お伊勢原」と呼ぶ丘上に鎮まり坐(ま)し「神明社」と称した。旧社殿は天明五年(1785)の修造と伝える。
 昭和十一年、氏子崇敬者の熱誠を集めて神明造りの本殿・幣殿・拝殿を改築、同十四年この地が横浜市域に編入せられたのを機として新町名に因み、社号を「日吉神社」と改めた。昭和二十八年十月七日、宗教法人となり神社本庁に所属、同五十一年、更に社殿を修復して、伊勢神宮の御分霊を勧請奉斎し、社務所を完備して神域を整え、同五十三年には神殿屋根を総銅板葺に改修し灼然たる神域を加えて現在に至っている。
 毎年元旦の午前零時には、除夜祭に引続いて元旦際を執行、遠近より初詣の衆庶近年頓(とみ)に多く、宏大なる御恩頼(みたまのふゆ)に浴している。
例祭  八月二十八日
社宝  社号額壱面(明治神宮 宮司 伊達巽書) 瓶子 壱対(人間国宝 加藤土師萌作)
境内建造物 表参道 社号標
      裏参道 社号標
      鳥居一・石磴六十八段・狛犬・手水鉢二・国旗塔
社紋  花菱(伊勢神宮御神紋に同じ)
 昭和五十三年十一月 宮司  相原玉麿謹書

 新編武蔵風土記稿には次のやうに載ってゐる(1)
神明社 (村ノ北ノ方丘上ニアリ入口ニ鳥居二基ヲ立是モ保福寺持)

 神奈川県神社誌には次のやうに載ってゐる(2)
由緒沿革  創立年代は詳らかではないが、新編武蔵風土記稿に「矢上(やかみ)村古くは谷上と書けり、村の北の方丘の上に神明社あり入口に鳥居二基あり、社頭に古松樹生茂りたれば古き宮居なることしらる。例祭は毎年七月二十一日同郡平村の神職小泉信濃来て祭事にあづかれり」と記している。昭和十四年横浜市に編入、日吉町となり、日吉神社と改めた。同五十一年社殿改築、伊勢神宮より御神靈を戴き、遷座祭を執行、爾来日吉の総鎮守として御神徳は輝きわたり、日吉のお伊勢さまの古称は兪々遍(あまねく)く親炙(しんしゃ)され、篤い崇敬を集めている。

 境内社の矢上天満宮
矢上天神社(やがみてんじんしゃ)(日吉の天神さま)
御祭神 菅原道真公は承和十二年(845年)、父菅原是善、母伴氏の子として奈良時代以来の学問を教授する家に生れ、幼少より厳格な教育を受け、幾多の宮暦を経て累進を続け、昌泰二年(899年)右大臣兼右大将に至り、左大臣、藤原時平に対峙する勢力となり、これを懼れた時平とその派閥の讒言におり二年後の昌泰四年(901年)一月二十五日、大宰権帥に左遷され、さらに二年後の延喜三年(903年)二月二十五日、失意の内に太宰府で薨しました。
菅原道真公は、冤罪をこうむって苦しむ人々や正直な人々を守護するという慈悲の神、又起請の神、和歌の神、書道の神、文芸文学の神として崇拝されています 当、日吉神社では、菅原道真公が延喜三年(903年)に太宰府で薨し、本年平成十四年(2002年)が御神忌千百年目に当り、菅公を偲び奉らんと
矢上天神社を創建し、太宰府天満宮より御分霊を勧請奉齋しました。
曰、矢上天神社は、学業成就、入試合格の御神徳のある神様として、崇敬されて います。
 東風吹かば
 匂ひおこせよ梅の花
 主なしとて春な忘れそ
菅公が太宰府に左遷された時の絶唱として、今でも人々の涙を誘い続けている。
  平成十四年十一月吉日
雑 記  東急東横線の日吉駅から北西へ0.5kmの丘上にある。
 表参道は通行できなかったので他に道があるだろうと西の方へ歩いて行くと「日吉神社→」と看板のある所に出た。神奈川県知事津田文吾書の社号標がある。帰路は、作業が終ったやうで表参道を通行できた。

 境内に慰霊碑がある。碑誌には次のやうにあった。
慰霊碑 碑誌

 昭和二十年八月十五日、終戦が宣せられてより既に三十五年の歳月が過ぎ去って了いました。そして戦争の悲惨なみにくい姿を知らぬ人々が年毎に増えて来ました。昭和十二年七月中国に於て端を発して以来八年大東亜戦争の名のもとに郷土日吉より幾多の有為な青年が親兄弟或は最愛の妻子を残して祖国日本の不滅と勝利を信じて、この日吉神社の社頭より征途に就いたのです。酷寒の大陸に、灼熱の南方戦線に、或は鳥も通わぬ絶海の孤島に、将又怒濤渦巻く太平洋に奮戦されたのですが、武運拙く敵弾に斃れ或は病魔に侵され無念にも若き生命を、遠い異郷に散華せられ、再び故郷の土を踏むことの出来なかった英霊に対して衷心より哀悼の意を捧げご冥福をお祈りするものです。  現在の我が国は、永世中立の旗印の下に繁栄と平和を築き上げましたが、この陰には数多くの尊い犠牲者の御功績があった事を終生忘れる事は出来ないと思います。 この度我等有志相計り、忘れてはならない方々の御芳名を留めその霊を慰めると共に、二度とこの悲しみを繰り返す事なきを願い平和を祈って、この碑を建てた次第です。
 昭和五十五年十一月三日
   日吉町戦没者慰霊碑建立委員会

 社名は地名の日吉(ひよし)に由来してゐるが、地名の日吉は「現在の横浜市港北区日吉本町2丁目にある金蔵寺の裏にあった日吉権現に因んで名づけられたといわれている」(3)といふ。当社と日吉大社とは直接の縁は無い訳だ。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  表参道。当日は、樹木の枝を落してゐた。参道の東側は慶応大学矢上キャンパス





写真2


写真3


写真4  矢上天神社


出典・脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』 巻之六十五 矢上村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  2. 『神奈川県神社誌』 神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.52 日吉神社
  3. H31.2.5閲覧 Wikipedia 日吉 (横浜市)

改訂記録
  • 令和06.04.09 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

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