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本牧神社(横浜市中区本牧和田)

作成日 平成29年1月14日
よみ  ほんもくじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成28年5月29日(日)
所在地  横浜市中区本牧和田19 (北緯35度25分27.81秒 東経139度39分35.29秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 本牧神社  当社HP
祭神  大日霊女貴命 ( おおひるめむちのみこと )
 須佐能男命 ( すさのおのみこと )
 大山津見命 ( おおやまつみのみこと )
 木花咲耶姫命 ( このはなさくやひめのみこと )
 八幡大神 ( はちまんおおかみ )
 八王子大明神 ( はちおうじだいみょうじん )
由緒  境内の掲示にはつぎのやうにあった。(小さな( )内は振仮名部分。多くの漢字に振仮名が付けられてゐるが転記に際してほとんどを略した。)
本牧神社本殿遷座に際し

 本牧神社(旧称・本牧十二天社)は、旧来、本牧岬の先端(本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨木騒然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でありました。
 その様子は江戸名所図会にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全、地元民からは守護神と崇められ、本牧十二天の地に八百年以上も鎮座してあつい信仰を受けていたのです。
 しかし、先の大戦の終戦直後の昭和二一年、この本牧地区は二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成五年までの四十七年間、神社は本牧町二丁目に仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過しておりました。
 伝記には、建久二年(西暦1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に朱塗厨子を奉納した、とございます。
 また、鎌倉将軍維康(これやす)親王より社領の寄進、中頃、両管領よりも同様に社領寄進。天正年間には徳川家康公の関東御入国に際し、高十二石免御朱印の下置、以来、徳川十五代将軍より御代々頂戴──とあり、方除け、厄除にご神徳が顕然(あらたか)として、武家や庶民からあつい信仰を受けてきたのです。
 また、室町時代の永禄九年(西暦1566年)から四百年以上も地元住民に受継がれてきた当神社の「お馬流(うまなが)し」神事は、「ハマの奇祭」として神奈川県指定無形民俗文化財、県民俗芸能五十選であり、毎年八月上旬に現在も斎行され続け、郷土の祭りとして保持されております。
 米軍の接収解除とともに、変換地域一帯は横浜市による区画整理事業が施行されました。産業道路の直線整形、消防署の建設などの公共事業計画に伴い、当神社の社有地は従前地の「本牧十二天一番地」ではなく、この「本牧和田」の新天地に換地されました。
 この新社地は、表通りに続く前面も、後背地の丘も公園であり、境内地全面が南向きのひな壇形状という、鎮守様をお祀りするには絶好の境内地であります。
 四十七年間、仮遷座を忍ばれておられた大神様に、氏子崇敬者の総意による赤誠を捧げ、浄財を募って建立されたのがこの神社殿でございます。
 権現造りの神殿は、総銅板葺きで、唐破風(からはふう)と千鳥破風の二重破風、屋根坪は百坪を超して横浜最大を誇ります。本牧地区住民の敬神の念のあつさ、郷土愛の深さを如実に現すとともに、広く慕われるご神威、ご神徳の賜物でございます。
 本牧地区の目覚ましい再開発とともに、大神様に新しいご社殿、すがすがしい聖域の境内にご鎮座いただくことは、更なる御神徳の発揚をたまわり、私達が祖先から連綿として受け継いで来た「郷土・本牧」の住民一同の「心の寄りどころ」として、また、明日を担う子供達には幼き日の懐かしいふるさとの思い出となる、と強く確信致しております。
 氏子崇敬者の皆様の、弥栄(いやさか)を弥増(いやま)しに増すために、今後も展開される神社の諸行事に、更なる強いお力添えを賜りますよう、衷心より重ねてお願い申し上げる次第です。
再拝
  平成五年十月吉日
本牧神社復興奉賛会
本牧神社氏子総代会
本牧神社 々 務 所

新編武蔵風土記稿巻之七十七の本郷村の条には次のやうにある。[1]
十二天社(丑ノ方ニテ村ノ惣鎮守ナリ、相伝フ神体ハ永禄年中今神主豊後ガ先祖松本次郎左衛門ト云モノ当所海面ニテ漁網中ニ得タリ、依テ爰ニ社ヲ建テ祀ル、小田原役帳ニ十八天領二十貫文奈古谷ニ伏トアリ、豊後カ話ニ昔小名間門ニ第六天鎮座ス、故ニ今モ其跡ヲ第六天山トモ後彼第六天ヲ移シ合祀テ十八天ト云ヒシニヤトイヘリ、御朱印社領十二石ハ天正入九年十一月当所ニ於テ賜ヘリ、本社三間四方弊殿二間四方拝殿二軒ニ四間前ニ鳥居二基タテリ) 末社 天神社(本社ニ向ヒテ右ニアリ、下並ニ同) 稲荷社 天照太神熊野龍王権現合社 若宮八幡社(コノ社ハイマノ本社ヨリ旧ク鎮座ストイヘリ、北方村ノ鎮守ナリ、元禄五年再建ノ棟札存ス) 神主松本豊後(吉田家ノ配下ナリ前ニ次郎左衛門カ子孫と云是ナリ、今別当多門院所蔵古記ノ内十二天領ノ内五石次郎左衛門抱の分多門院ニ譲リ渡スト云コトヲ載セ末ニ文禄三年午二月十六日多門院殿江神主次郎左衛門ト記シ花押ヲ載ス) 別当多門院(略 約150字) 
十二天社地図(略、なお、南方から俯瞰した図で、杜・鳥居二基・社殿・末社・背後ノ山、船の浮ぶ海、手前の耕作地等が描かれてゐる)
雑記  根岸線山手駅から東南東へ1.2km、同線根岸駅から東北東へ2.2km(バスの便あり)、本牧山頂公園と新本牧公園の間にある。

 当社HPには、相殿・境内社のことを含め写真もあり詳しい。新編武蔵国風土記稿と一致してゐないと思はれる記述もあるが、神社が正しいのだらう。

 本牧二丁目には、新鎮座地の場所を示す看板が設置されてゐた。たぶん、そこが仮鎮座地か近傍なのだらう。現在地から北(僅かに西寄り)へ0.5kmの所にある。150坪を無償で借受け昭和二十九年十一月に遷座されてゐる。


宇気の稲荷社

左:本牧水天宮、右:本牧天神社

熊野速玉社(風土記稿の「熊野龍王権現」)

脚注
  1.  新編武蔵風土記稿 内務省地理局編纂(明治17年) 国立国会図書館デジタル化出版


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