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吾妻神社(横浜市中区本牧原)

作成日 平成29年1月14日
よみ  あづまじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成28年5月29日(日)
所在地  横浜市中区本牧原29-18 (北緯35度25分20.88秒 東経139度40分3.33秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 吾妻神社
祭神  日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
由緒  社頭の掲示には次のやうにあった。
吾妻神社由緒

一、鎮座地 横浜市中区本牧原二十九-十八
一、御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
一、創立  文和甲午 (西暦1354年)
一、例祭日 正月十七日 七月十七日

当社は文和甲午三年正月十七日新田義貞の臣篠塚伊賀守平重廣の勧請せしものにして旧御神体に文和甲午三年正月十七日祠基新謹平重廣ご銘記す
   一説に曰く
当社は元南総木更津吾妻村の吾妻神社のご神体にして甲冑を穿ち剣を持ちたるご神体なり浪に漂ひ給ひしを此地の漁師吉太夫といふ者近海に網を投じて当社の御神体を得たり依つて天和三年神社を営建し吉太夫を神官とせし
然れ共旧神主橋本家所蔵の神社官領の書類を見るに吉太夫は天和年間の人にあらず寛政年間の人にして百五十年の相違あるを以て南総吾妻神社を調査せるに不詳なり、旧御神体(延喜年間の鉈彫作)は甲冑を着け給はず古代服にたつき形の袴を着用し給ひ披創御立躰なり
背後に文和甲午三年正月十七日云々(略文)平重廣とあるによつて漂着説よりも篠塚伊賀守の勧請説が正しきといふべし ただし右記の御神体はおしくも先の戦災で焼失してしまい現存しない
   霊験伝説
一、当社は古来より小児の虫の病並に癪病を煩ふ者祈れば霊験あり全快の後は粟餅を献すと
風土記稿にも載せたり此の起源は元禄年間以前本牧に役宅のありし時代献殻の虫祓ひ祈願の験ありしより何時か虫癪の病に煩ふもの信仰するに至れりと云ふ
一、武蔵久良木郡本牧本郷 吾妻神社
  明治六年十二月 被列村社候事  神奈川縣
中区史(昭和60年刊)編纂に当って地域の古老から聞いたといふ資料[1]には、漁師が網にかけたのは御神木、木更津の吾妻神社で火事になって御神体を海岸へ置いておいたら行方不明になった、昔は大祭の時に木更津の本社から宮司が来たらしい、と載ってゐる。

新編武蔵国風土記稿巻之七十七の本郷村の条には次のやうに載ってゐる。( )内は、割注部分。
吾妻権現社(除地五畝八歩、巽ノ方ナリ、神体ハ甲冑ヲ穿チ剣ヲ持チタル像ナリ、イツノ頃カ此浦ニ漂着セリ此像モト上総国木更津吾妻村吾妻権現の神体ナリシト云伝フ、小児ノ病或ハ癪ヲ煩フモノ祈レバ験アリ、快復ノ後ハ粟ノ餅ヲ供スルヲ例トス、天徳寺ノ持) 末社稲荷社
雑記  根岸線根岸駅から東北東へ2.9kmの平地にある。明治期の地図を見ると社殿の東180mほどに海岸線があった。
手水石は明治三十九年七月と彫られてゐる。狛犬は明治三十九年五月建立。日露戦争戦捷記念のやうだ。鳥居には昭和三十七年七月吉日と彫られてゐる。玉垣には本牧魚問屋組合一同、本牧大網組合一同とあり土地柄をうかがわせる。(海面が埋立てられた今は昔)
境内に稲荷社があり、扉が開けられ新しい榊が供へられてゐた。

中区のweb頁では「横浜中区史」(約1200頁)がダウンロード出来る。自分の生れたり育った地の歴史を知りたいと思っても、手元で市史閲覧は出来ない。望んでゐた施策だ。


社殿に向って左にある祠は稲荷社

狛犬は砲弾を抱へてゐる

脚注
  1.  中区わが街 ─ 中区地区沿革外史(昭和61年発行・横浜市中区役所)p.153


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