よみ
| がんきいなり
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参拝日
| 平成26年5月24日(土)
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所在地
| 横浜市西区戸部町 (35度27分17.56秒 139度37分30.82秒)
地図:地理院地図(記号無し)
いつもNAVI(記号無し)
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HP
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祭神
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由緒
| 掲示の由緒
岩亀稲荷の由来
横浜の開港は安政六年(1859)、開港当時の横浜の歓楽街は港崎町(横浜スタジアム辺りで隣接する日本庭園に岩亀楼と刻まれた
石灯籠が保存されている)から高島町に移り一二を争う大楼、岩亀楼があった。三層櫓式の楼閣がその偉大さを誇り夜目にも美しく
人々の話題となった。当主は佐吉といって、埼玉県岩槻の人で、その音読みで「がんき」と呼ばれていた。この岩亀楼一番の売れっ子、
喜遊大夫(亀遊説もある)がペリー艦隊の軍人に言い寄られたがこれを拒み、有名な辞世「露をだにいとう倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」
を残して自害した。この句から幕末の遊女気質が十分伺える。遊女たちが病の時、静養する寮が今の岩亀横町にあり、遊女達が信仰していた
お稲荷様が寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も信仰が受継がれている。このお稲荷様を粗末にすると必ず近所のご婦人に災いが
おこると言い伝えられ、毎年五月二十五日には盛大に例祭が行われている。
有吉佐和子著「ふるあめりかに袖はぬらざじ」の舞台も喜遊大夫がモデルである。
岩亀稲荷講
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・港崎町:みよざきちょう、遊郭の名は港崎遊郭
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雑記
| 戸部杉山神社から山下公園へ向かはうとして歩いてゐたらパン屋さんとお稲荷さんが目についた。
妻が買物をしてゐる間に、お参り。シャツ屋さんと花屋さんの間の奧に鎮座してゐる。
帰ってきてnetで検索すると、「6軒で講をつくって守っている、毎月25日には三春台の妙音寺さんがご祈祷に来る、亀岩楼は慶応二年10月『豚屋火事』という大火で焼失、
(http://yokohama-now.jp/home/?p=6365 より)」といふことだった。
横浜スタジアムから稲荷まで直線で2kmもある。桜木町駅からは北西へ600m。
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