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岡野神社(横浜市西区岡野)

作成日 平成28年5月9日
よみ  おかのじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成27年5月23日(土)
所在地  横浜市西区岡野町2-4-15 (北緯35度27分31.77秒 東経139度36分41.83秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 岡野神社
祭神  大物主神 ( おおものぬしのかみ )
 稲荷大神 ( いなりのおおかみ )
由緒  拝殿内にある掲示には次の様にある。
岡野神社 縁起

一.祭神  大物主神
        稲荷大神

 弘化四年(約百四十年前)未年正月、三河國碧海郡川島太田佐兵衛なる人 武蔵國久良岐郡横浜浦にて新田開発を計画、 讃岐國象頭山金刀比羅大権現へ祈願し艱難辛苦の末遂に開発に成功したので神助に感謝し、象頭山へ登山のそのご神体を受けて神殿総鎮守として崇敬し 日夜奉仕した。
 かくして年々三月、十月各十日を以て祭日と定めた。
 安政六年末年中当地御海港中の御地所拝借人総代太田屋新田農夫総代等申し合せ同年十月十日大祭を執行し、更に太田新田の太田町一丁目より 同八丁目迄入舟町と改まり、以上九ヶ町の総鎮守と崇め奉った。
 慶應二年寅年十月廿日末廣町より出火、大火の為御用地となり、その替地として、現在の尾上町二丁目に至る場所即ち旧緑町に移轉した。
 明治六年酉年中相生町三丁目より出火、その折当社も類焼にかかったので伊勢山へ鎮座したが、偶々大正十二年九月一日の関東大震災に遭遇し 神殿悉く焼失した為、昭和三年二月、中区新山下町三丁目五十二番地の場所に移転の止むなきに至ったのである。
 元来岡野の里は、往時入海で旧記によれば、天保の初頃より陸地少しく現われていた。時に保土ヶ谷駅字帷子の里に住していた岡野勘四郎氏が埋め立てを始め、 次々に新田として開発したもので、明治三十四年四月横浜市に編入せられ現在の様な地形となったが住する者はまだ少なかったのである。 然し土地発展の為追々来り住む者が増えて来た事は喜ばしい事であった。
 こうして町の将来の為、又、敬神崇祖の念を高める為にも一神社を創立する事こそ急務なりと町民は念願していたが、大震災により止むなく遷延していた。
 昭和三年頃より町内役員は勿論、町民全体として、神社を奉安し敬神を枢軸としなければ人心の和合も期し得ずと、町民大会を開き変則乍ら假に昔より、 この○に鎮座していた庭内私祠豊川稲荷を町内の社と定め崇敬の誠を捧げてきたのである。
 かく次第に敬神の念が町内全体に篤くなったので、時の宮司磯崎直有氏子総代伊佐栄助氏等協議の結果、昭和十五年十二月七日横浜市長 青木周三に願出で、神奈川縣知事松村光麿の許可を得、区画社金刀比羅神社移轉の件並に豊川稲荷社を併せて「岡野神社」の設立をみたのである。
 昭和二十年五月二十九日大空襲の為戦災を受け焼失したのであるが氏子崇敬者の熱誠により、昭和二十七年八月、現在の御社殿が建立でられ 竣工報告祭が盛大に執行せられた。
 当神社は、右の縁起の如く昔より横浜の主神にてその鎮座した所は皆殷賑を極め営業の繁昌、家内安全、五穀豊穣、誠に霊験あらたかで、 当所の崇敬者太田佐兵衛の様にその念願して叶わざるなき尊神である。

当神社縁起は、昭和三十三年七月、横浜開港百年記念に岡野神社奉賛会が設立され 委員横山鹿次 伊佐圭輔両氏が起草作成され、文章は、 文語体候文であった。
そして全文を欅製の板に宮司が浄書し御社殿の前に掲示したのであるが、久しき年月と共に風雨にうたれ、文字も消え、判読困難の為 今般口語体に改め、ここに掲げたのである。
  昭和五十二年八月 大祭の日
岡野神社宮司 嶽山寛忠 謹書


象頭山:ぞうずさん 國: 應: 廣: 轉: 假: 縣
雑記  横浜駅から南西へ1.1km、相鉄線平沼橋駅から西南西へ0.4kmのところにある。
 水天宮平沼神社でもさうだったが、嘗て新田だったといふ面影は全く感じなかった。周りは、住宅、大型商店、住宅展示場など。



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