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諏訪社 (神奈川県横浜市瀬谷区相沢)

参拝日 令和2年10月6日(火)
作成日 令和3年5月1日(土)
改訂日 令和6年3月7日(木)
 
よみ  すわしゃ  
所在地  横浜市瀬谷区相沢3ー24ー1
  (35度28分30.46秒 139度29分12.10秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 諏訪社
 当社HP 瀬谷 諏訪社
祭神  建御名方命 ( たけみなかたのみこと )
由緒  神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 創立年代は明らかでないが、治承四年一一八0)源頼朝鎌倉入りの前夜、当社に一泊の縁腋を以て、建久三年水田五反歩を寄進したと伝える。天文十二年十一月に社殿の再建あり、現社殿は昭和四十三年の改築にかかる。
 なお当社には、もと文久三年鋳造の梵鐘があったが、今は銘文のみを伝える。

 境内に区による案内板があり、次の様に記されてゐる(横書)
諏訪社(すわしゃ)

 神社の起源はは不明ですが、言い伝えによれば、平安時代の治承4年(1180年)8月23日〜26日石橋山に兵を挙げ敗れた源頼朝は房総に逃れました。その後、東国各地の源氏の兵力を集め、10月6日鎌倉入する前夜、武蔵より相模に入り世野郷(せやごう)(瀬谷郷)の相辺沢(あいべざわ)の鎮守諏訪明神に一泊しました。翌日、郷土相辺沢六郎義氏(あいべざわろくろうよしうじ)、相辺沢七郎義村(あいべざわしちろうよしむら)、の先導で、隣村の飯田義家と共に、俣野村(またのむら)で俣野五郎景久(かげひさ)・大庭景親(おおばかげちか)をやぶり鎌倉に入り、武家政治の基を築いたと言われています。
 祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)であり、神社名は諏訪社です。

 平成10年3月(平成30年3月貼替)    瀬谷区役所

  註 治承:1177年から1181年、ぢしょう 又は ちしょう

 新編相模国風土記稿の瀬谷村の条には次の様に載ってゐる(2)
八幡宮 例祭定期ナク隔年ニ行フ下二社是ニ同シ
山王社
諏訪社
左馬明神社 例祭八月十日以上四社各在所ノ鎮守トス
神明宮 以上五社共ニ村持ニテ実蔵西福ノ二寺ヲ別当トスト云フ
雑記  相鉄線瀬谷駅から北東へ0.6kmのところにある。

 本日は、8月26日以来の神社巡り、三社。
 相鉄線沿線で、ぽつんぽつんと残ってゐた未参拝社を一日切符を利用して巡り、横浜中央図書館によってきた。事前には十社を調べてゐたが、この頃あまり歩いてゐなかったこともあり、三社だけにとどまった。
 武漢肺炎禍は、体力低下をきたしてゐた。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 参道入口
写真1 拡大 (1280×960)

参道入口

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

写真3 社殿(正面)
写真3 拡大 (1280×960)

社殿(正面)

灯籠は一基で「旹文化十四丁丑六月吉*」(*は表面剥落で文字は不明)とある。
狛犬は、明治廿七年十二月吉日、と年記がある。

写真4 社殿(側面)
写真4 拡大 (1280×960)

社殿(側面)

写真5 社殿前から鳥居方を望む
写真5 拡大 (1280×960)

社殿前から鳥居方を望む

一対在る灯籠には「平成十二年六月吉日」の年記がある。

写真中央からやや左にある大木は、横浜市の名木古木指定されてゐるケヤキ。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.100
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之百二 瀬谷村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.03.07 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 神社庁web神社情報のリンク修正。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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