よみ
ねのはちまんしゃ
| 概要
| 当社(子之八幡社)は横浜市戸塚区上倉田町に鎮座する。子神社は大正四年に八幡社を合祀し、子之八幡社と改称した。両社共創立年代不詳。
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所在地
| 横浜市戸塚区上倉田町978
(35度23分47.28秒 139度32分12.78秒)
地図:地理院地図(ズームレベル15)
マピオン(ズームレベル15)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西59km 南北55km
・+印:当社位置
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・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
・○印:本殿の位置
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HP等
| 神奈川県神社庁 神社情報 子之八幡社
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祭神
| 大己貴命 (おおなむちのみこと)
応神天皇 (おうじんてんのう)
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由緒
境内には、由緒を記したA4の紙、四枚分にわたる文書が掲示されたゐる。改訂歴まで記載があり、感心。
上倉田町鎮守 子之八幡社 略記
鎮座地
| 横浜市戸塚区上倉田町九七八番地
県道戸塚〜鎌倉線。戸塚駅より二番目のバス停「表(おもて)」で降りると左側の小高い森の木の間から御社殿と鳥居がみえます。
| 御祭神
| 大己貴命(大国主命) 應神天皇(誉田別尊)
| 神殿
| 神明造、木造、銅板葺 十一坪(36.3m2)
| 境内坪数
五百坪(1650m2)
| 主な行事
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元旦祭
| 一月一日 午前0時より午前三時頃まで氏子役員が奉仕しています。
午前十時式典を行います。
| 左義長 (どんど焼き)
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| 一月十五日 午前九時より午前中境内で行います。
| 例大祭
| 八月第一土曜日 午後二時式典を行います。
以前は例大祭を四月二日に行っていましたが、社会情勢や生活様式の変遷から上倉田を永住の地としているる皆さんの希望で夏休み中の八月第一土曜日に改められました。当日は神輿渡御、納涼おどり、演芸、模擬店等、老いも若きも祭りに参加し、氏神にお仕えして楽しい一日を過しています。
| 七五三 祝
十一月十五日前の日曜日、午後一時より祝式を行います。
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| 由緒沿革
| 子之八幡社はもと子之神社と云われ、勧請年月日は不詳ですが古くから村の鎮守でありました。記録によると、享和二年(1802)三月及び、天保二年(1831)社殿が造営され、明治六年十二月村社に列し、同十七年九月及び同二十二年九月の再度の暴風雨のため社殿が破損したが直ちに再建されました。
上倉田町1391番地に鎮座されていた八幡宮が大正四年一月一日の火災で社殿が焼失、同年四月二十日子之神社に合祀され、以後子之八幡社と改称されました。
現在の社殿は大正六年に造営され、大正十年七月神饌幣帛料供進社の指定を受けました。昭和四十六年に拝殿の草葺を銅板葺に改造して、社殿の様相を一段と整えることができました。
御祭神大己貴命(大国主命)は、出雲大社を本宗として、その分社はあまねく全国に行き亘っています。大国主命は国造の大神、又は大物主命とも称せされ、物質界のみならず精神界の支配者であるという信仰もあり、多方面に神徳があらわされました。
八幡宮が第十五代應仁天皇を祭神としたことは、遠く奈良時代九州宇佐八幡宮を本宗として祀ったことに始まります。貞観元年(859)山城(奈良)男山に分霊し、石清水八幡宮として祀られました。以来、氏族神、郷土神として深く信仰し八幡様は八百万の神々の中で最も広く信仰されています。
中世の武士は武神として尊び八幡大菩薩として仏教と習合した。八幡宮は全国神社の半数に及んでいます。八幡太郎義家は源氏の氏神として、又、源頼朝は鎌倉に幕府を開き氏神として尊崇した。上倉田八幡宮は勧請年月日が不詳ですが、当時長尾郷主が民生安定を願って奉祀されたであろうことは、新相模風土記などから推察されます。
明治以降は神祇院がおかれ、神仏分離がされ、明治六年村社に列せられてから幣帛料が奉祀され、村長が祭礼に参列された。行政区画も相州上倉田村から鎌倉郡上倉田村に、昭和十四年には横浜市に編入されて、戸塚区上倉田町に変った。第二次大戦後は神社は宗教法人として、神社本庁から認証され法務局に登記されました。
このように行政改革や制度変遷に加えて上倉田町の急激な発展はいつか曾つての農村が都市化されました。ここを永住の地と定めた方々も急増しました。永い歴史と友に上倉田の鎮守様として崇敬され立派に護符されてきました。今後も愈々共に親しんで、氏神のお守を戴き、和やかな、明るい街づくりに努めてまいります。
宮司(代表役員) 石井 嚴
横浜市栄区笠間町404番地
電話 (045)893-2708
氏子総代 (転記略)
昭和 五十七年 九月 作成
平成 十四年 五月 再版
平成 二十六年 七月 再版
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註 上倉田村:明治22年に 飯島村、長沼村、下倉田村、上倉田村が合併し豊田村設立。豊田村は昭和14年に横浜市に編入された。(1)
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神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる(2)。
境内社 山王社 道祖神
由緒沿革 創立年代は不詳であるが、もと子神社と称し、古来村の鎮守であった。享和二年二月及び天保二年六月社殿の造営あり、明治六年十二月村社に列した。同十七年九月及二十二年九月再度暴風雨の為破損したが直ちに再建、大正四年四月二十日無格社八幡社(文化十二年改築)を合併して子之八幡社と改称、大正十年七月神餃幣鳥料供進神社の指定を受けた。
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新編相模風土記稿には次の様に載ってゐる(3)。
八幡宮 村内ノ鎮守トス (以下三社共ニ鎮神トセリ) 本地仏弥陀ヲ置祭祀九月八日古松一株アリ(囲一丈四尺許) 神木ト称ス村持下同
子神社 祭祀九月十三日神木松樹アリ(囲一丈三尺余)
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| 雑記
| 最寄駅は東海道線戸塚駅で北北西(335°)へ0.5kmのところにある。
市街地化され地図の等高線が読みづらいが、鎮座地は小高い所で戸塚駅から比高10mほどある。
境内社(屋内に幣がおかれてゐたが社名不明)、道祖神(嘉永六年)・庚申塔・青面金剛塔・堅牢地神(文久三年))等12基の石像物が集められてゐた。
八幡宮の旧地上倉田町1391番地は、35度23分25.0秒 139度32分24.2秒(地理院地図)
で、当地からは南南東へ0.75kmのところで、当時の地図には遣ヶ谷 の地名が記されてゐる
八幡宮旧地の近くには「実方塚」がある。平安時代の歌人藤原実方縁の塚で、平成10年には一千年祭が行はれたが、平成15年に道路建設のため現在地に移されたといふ。実方一族による移転の経緯を記した石碑もあるやうだ。1000年もの永きに維持し続けてきたことには頭がさがる。(旧地確認のため地図を見て知った。訪れてゐない)
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