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冨塚八幡宮 (横浜市戸塚区戸塚町)

参拝日 令和3年6月13日(日)
作成日 令和4年4月16日(土)
追記日 令和6年2月16日(金)
よみ  とみづかはちまんぐう
概要  当社(富塚八幡宮)は横浜市戸塚区戸塚町に鎮座する。前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天王と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事ができたのに感謝をして、延久四年(1072)社殿を造り両祭神をお祀りした。  
所在地  横浜市戸塚区戸塚町3828
  (35度23分37.27秒 139度31分43.11秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 冨塚八幡宮
祭神  誉田別命 ( ほむだわけのみこと )
 富属彦命 ( とみやすひこのみこと )
由緒   元 郷社
 境内には由緒掲示板が立て掛けられてゐた。文章は次の様。
冨塚八幡宮 戸塚の鎮守様
勝負開運 厄除の神社
御祭神  誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)
 富属彦命(とつぎひこのみこと)(相模国造二世孫)
例大祭  八月第一日曜日(前日宵宮)


   御由緒

 平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天王と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事ができたのに感謝をして、延久四年(西暦1072年)社殿を造り両祭神をお祀りしました。
 社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により、戸塚の地名が発祥したと伝えられています。
 戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあります。
 現在の本殿は天保十四年、拝殿は昭和九年の造営になります。
 明治六年には其の由緒を以って戸塚・泉・瀬谷・栄区唯一の郷社(近郷を鎮守する神社)に列せられました。

宮御神輿  宮御神輿は江戸時代天保十四年の作で、平成元年から二年かけて大修理を行いました。


   境内社

玉守稲荷  豊作 商売繁盛の神様
冨塚天神  学問成就 合格祈願の神様
富塚天満宮脇に掲示があり、次の様に記されてゐる。
 「冨塚天満宮(天神様) 御祭神 菅原道真  江戸時代末、当宮神主が開いていた私塾の門弟達が、学問の成就を願い、明治元年に建立しました。 ながらく境内奥まった所にありましたが、その霊験あらたかなるを以って平成十一年、もの処に遷しました。」 

 『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる。
由緒沿革 前九年役平定のための源頼義、義家父子が奥州下向の途次、当地に露営し、夢に応神天皇及び富属彦命の神託を蒙り、その加護によって戦功を収めたので、延久四年(一〇七二)富塚山中腹に社殿を営み両祭神を勧請したものである。後に鎌倉権五郎景政の臣・戸塚修六友晴は、当社の霊験の灼なるを長み、応徳二年に社殿を再建した。現在の本殿は天保十一年、拝殿は昭和九年の改築になる。
 富属彦命は相模国造弟武彦の二世の孫で、境内山頂の古墳がその墓と伝え、これを富塚(トミツカ)と称し、やがてト「ツカ」となったのが「戸塚」の地名の起りと伝える。明治六年十二月、戸塚区内唯一の郷社に列せられている。

 新編相模国風土記稿には次の様に載ってゐる。
八幡宮 例祭八月朔日大己貴命ヲ相殿トス
 末社 稲荷 龍神 健御名方命 客人明神 神職柴田大内蔵 京吉田家ノ配下ナリ
雑記  最寄駅は東海道線戸塚駅で、当社から北北東(27°)へ1.0kmの所にある。

 由緒掲示には境内社として記されてゐないが、稲荷社の向ひ辺りに御嶽社がある。石祠正面にに御嶽大権現と刻まれ、狼の像(駒狼)がおかれ、神煌燈一対がある。

 石像物に、「紀元一千六百年奉祝記念 昭和十五年十一月十日献木 帝國在郷軍人會戸塚分會」と刻まれたものが灌木の陰に立ってゐた。他に、庚申塔が数基あった。

 本日最後に巡った神社。このあと、横浜中央図書館で調べ物をした。家を出るのが遅かったので時間が無く、古墳(富塚)の方へは行かなかった。すぐ近くには、八坂神社や羽黒神社があるので、近くに来た際には古墳へも足を伸すやう計画したい。

 冨・富 の文字は引用元の表記に基づいた。ややこしい。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 社号標:大正三年九月奉納、水戸清香亭の方によるもの。水戸清香亭は、水戸市内の明治42年創業昭和18年に閉じた料亭で、建物は昭和20年の空襲で焼失したらしい。どのやうな縁があったのだらう。
 石灯籠:文政九丙戌年四月吉日
 鳥居:文化五年辰二月吉日建立大正拾貳年為関東大震倒潰 昭和五年九月吉日再建 氏子中
 玉垣:文政四辛巳四月吉日 氏子中

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿への階段
 向って右は、神輿庫。更に右側に社務所がある。
 向って左は、幼児園だった建物がある。

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿(正面)
 狛犬には天保十二年の年記がある。

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿(斜め前から撮影)

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 御本殿

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 境内社 玉守稲荷神社
 本社に向って右手の少し高い所(石段14段)にある。
 上り口の脇に富塚天満宮がある。

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 幼児園(富塚幼児園)だった建物
 境内に碑が建てられ、それによると、開園:昭和二十四年四月、閉園:平成十二年三月。

御朱印
御朱印 拡大 (745×958)



出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.88
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之九十九 戸塚宿の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.02.16 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。概要欄作成と記入。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)
  • 令和04.10.29 御朱印画像へのリンク切れ修正

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