よみ
とみづかはちまんぐう
| 概要
| 当社(富塚八幡宮)は横浜市戸塚区戸塚町に鎮座する。前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天王と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事ができたのに感謝をして、延久四年(1072)社殿を造り両祭神をお祀りした。
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所在地
| 横浜市戸塚区戸塚町3828
(35度23分37.27秒 139度31分43.11秒)
地図:地理院地図(ズームレベル15)
マピオン(ズームレベル15)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西59km 南北55km
・+印:当社位置
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・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
・○印:本殿の位置
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HP等
| 神奈川県神社庁 神社情報 冨塚八幡宮
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祭神
| 誉田別命 ( ほむだわけのみこと )
富属彦命 ( とみやすひこのみこと )
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由緒
元 郷社
境内には由緒掲示板が立て掛けられてゐた。文章は次の様。
御祭神
| 誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)
富属彦命(とつぎひこのみこと)(相模国造二世孫)
| 例大祭
| 八月第一日曜日(前日宵宮)
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御由緒
平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天王と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事ができたのに感謝をして、延久四年(西暦1072年)社殿を造り両祭神をお祀りしました。
社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により、戸塚の地名が発祥したと伝えられています。
戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあります。
現在の本殿は天保十四年、拝殿は昭和九年の造営になります。
明治六年には其の由緒を以って戸塚・泉・瀬谷・栄区唯一の郷社(近郷を鎮守する神社)に列せられました。
宮御神輿
宮御神輿は江戸時代天保十四年の作で、平成元年から二年かけて大修理を行いました。
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境内社
玉守稲荷 豊作 商売繁盛の神様
冨塚天神 学問成就 合格祈願の神様
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富塚天満宮脇に掲示があり、次の様に記されてゐる。
「冨塚天満宮(天神様) 御祭神 菅原道真 江戸時代末、当宮神主が開いていた私塾の門弟達が、学問の成就を願い、明治元年に建立しました。 ながらく境内奥まった所にありましたが、その霊験あらたかなるを以って平成十一年、もの処に遷しました。」
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『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる。
由緒沿革 前九年役平定のための源頼義、義家父子が奥州下向の途次、当地に露営し、夢に応神天皇及び富属彦命の神託を蒙り、その加護によって戦功を収めたので、延久四年(一〇七二)富塚山中腹に社殿を営み両祭神を勧請したものである。後に鎌倉権五郎景政の臣・戸塚修六友晴は、当社の霊験の灼なるを長み、応徳二年に社殿を再建した。現在の本殿は天保十一年、拝殿は昭和九年の改築になる。
富属彦命は相模国造弟武彦の二世の孫で、境内山頂の古墳がその墓と伝え、これを富塚(トミツカ)と称し、やがてト「ツカ」となったのが「戸塚」の地名の起りと伝える。明治六年十二月、戸塚区内唯一の郷社に列せられている。
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新編相模国風土記稿には次の様に載ってゐる。
八幡宮 例祭八月朔日大己貴命ヲ相殿トス
末社 稲荷 龍神 健御名方命 客人明神 神職柴田大内蔵 京吉田家ノ配下ナリ
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| 雑記
| 最寄駅は東海道線戸塚駅で、当社から北北東(27°)へ1.0kmの所にある。
由緒掲示には境内社として記されてゐないが、稲荷社の向ひ辺りに御嶽社がある。石祠正面にに御嶽大権現と刻まれ、狼の像(駒狼)がおかれ、神煌燈一対がある。
石像物に、「紀元一千六百年奉祝記念 昭和十五年十一月十日献木 帝國在郷軍人會戸塚分會」と刻まれたものが灌木の陰に立ってゐた。他に、庚申塔が数基あった。
本日最後に巡った神社。このあと、横浜中央図書館で調べ物をした。家を出るのが遅かったので時間が無く、古墳(富塚)の方へは行かなかった。すぐ近くには、八坂神社や羽黒神社があるので、近くに来た際には古墳へも足を伸すやう計画したい。
冨・富 の文字は引用元の表記に基づいた。ややこしい。
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