ホーム神奈川県横浜市 > 戸塚区

諏訪神社 (横浜市戸塚区影取町)

参拝日 令和4年3月16日(水)
作成日 令和4年12月18日(日)
追記日 令和6年2月7日(水)
よみ  すわじんじゃ
概要  当社(諏訪神社)は横浜市戸塚区影取に鎮座する。創建年代不詳。古くは字名を鉄砲宿と称したのに因み武神を勧請したものと伝える。  
所在地  横浜市戸塚区影取町88
  (35度21分48.43秒 139度29分50.28秒)
地図:地理院地図(ズームレベル15)
   マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 諏訪神社
祭神  健御名方命 (たけみなかたのみこと)
由緒  当社前の歩道部分に設置(戸塚区役所)の案内標識には次の様に記されている。
旧東海道  創建年代は不詳ですが明治四〇(一九〇七)年に山谷仲町からこの辺りに移転し出来た神社で、周辺が鉄砲宿と呼ばれていた事から武神の諏訪神社を勧請したと言われています。影取の地名の由来となった影取池は、此の神社の奥にあったと伝えられています。

 『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 創建年代不詳であるが、往古当地字名を鉄砲宿と称し、鉄砲の教練場であったのに因み、武神を勧請したものと伝える。鎮座地はもと山谷仲町一一七番地であったが、明治四十年九月現在地に遷座した。同四十二年及び昭和四十三年、両度にわた って社殿を改築し、現在に至る。

 『新編相模国風土記稿』には次の様に載ってゐる(2)
諏訪社  村ノ鎮守トス。片瀬村常立寺持。
 同じ条に地名の由来について記載がある。
小名 影取(此処ニ纔ノ清水流ル。土俗伝テ昔ハ池アリ池中ニ怪魚スミ夕陽ニ旅客ノ影池中ニ投スルヲ喰ヒシヨリ影取の名残レリト伝フ。案スルニ五行伝曰、蜮如鼈三足 生於南越一名射影在水中 人在岸上影見水中投人影即殺之 故曰射影 盖当所ノ池中ニ住ルモ此類ナルヘシ)
    読み  纔:わづか  2.蜮:いさごむし  盖:けだし
雑記  最寄駅は小田急江ノ島線善行駅で西(264度)へ2.2kmのところにある。路線バスを含めた道路事情、商業施設を利用を考へると藤沢駅(南(197度)へ2.9km)、戸塚駅(北東(129度)へ5.3km、戸塚区役所が隣接)の利便がよささう。

 江戸末期は山谷新田(村)で、明治22年、山谷新田・上俣野村・東俣野村・城廻村の一部が合併して俣野村が成立。大正村をへて昭和14年に横浜市に編入され、戸塚区の一部となってゐる。
 明治39年測図の地図には当社のある辺りに山谷新田の名が記され、北北東300m程の所に影取、南南西500m辺りに鉄砲宿の地名が記されてゐる。
 『神奈川県神社誌』に旧地として住所「山谷仲町一一七番地」と記されてゐるが、どこかは判らなかった。

 当社の前の道はかつては東海道だった。東に滝川(たきのがわ)、西には境川が流れ、間の部分は台地になって、道が通ってゐる。清水が流れてゐたと云ふのは、台地に降った雨が湧出て滝川の方へ流れたのだらうと想像する。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿正面

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 斜め前から見た社殿

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 境内の様子(社殿脇から撮影)


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.85
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之百四 山谷新田の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.02.07 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。概要欄作成と記入。風土記稿からの引用部分の修正(欠落・誤字)

文頭へ移動

inserted by FC2 system