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杉山神社 (神奈川県横浜市鶴見区岸谷)

参拝日 令和2年6月7日(日)
作成日 令和3年2月8日(月)
改訂日 令和6年3月12日(火)
 
よみ  すぎやま じんじゃ  
所在地  横浜市鶴見区岸谷 1-20-61
  (35度29分12.92秒 139度39分1.25秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 杉山神社
祭神  日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
由緒  拝殿に向って左社前に由緒書が掲示されてゐる。
杉山神社 略記

生麦 大黒町 岸谷 中央5 総鎮守 杉山神社
鎮座地  横浜市鶴見区岸谷一丁目二十番六一号(旧生麦一八四五番地)
御祭神  日本武尊 (やまとたけるのみこと)
祭礼日  八月一日(現在は八月の第一土・日)
境内地  七百七拾六坪
     付記
御祭神は第十二代景行天皇の皇子として生まれ終生この国の統一と民の安泰の為につくされた尊を讃える歌に、
「蝦夷、熊襲しずめ給えし皇王子(すめみよ)のたけきいさおは千代にかがやく」の如くであります。

     由緒
当社の設立は古くて判りませんが、元本村にあったが天正二年(1574)に当村々に同年八年に現地に設立されたと伝えられており 元禄十六年*万延元年に再建されるとあり(昭和四十九年(1974)に御鎮座四百年祭を斎行) 現社殿は昭和十二年に着工し十四年に竣工した。
境内に 手鉢水盤に享保九年六月吉日 石造鳥居に天明元年六月吉日の年号の彫刻が在る。
高い石段は生麦沖に沈んだ石を村人達が引き上げ神社の階段を作る。明治十年に完成。
神楽殿は前社殿
祖霊社  戦後すぐ戦没英霊を祀る社を設立、当時終戦直後の時期先祖の御霊を祀る社とした。
神輿蔵庫  平成十二年一月吉日(2000)新築完成
平成十一年十二月記す 生麦 杉山神社 社務所

註 元禄十六年:1703年。元禄地震発生のため、翌年改元。
  万延元年 :1860年。安政七年三月に万延と改元。安政元年には安政東海地震が発生してゐる。
  享保九年 :1724年。17年には享保の大飢饉発生。
  天明元年 :1981年。光格天皇即位のため4月に改元。2年〜8年に天明の大飢饉発生。

 神奈川県神社庁誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 杉山神社は本村関口八郎右衛門の持地にあったがもとより創立年月日は詳かでない。昌泰年中とも誌されている。天正二甲戌年当村々社に位し同八年庚辰八月八日現地に建立という。元禄十六年癸未二月と万延元庚申年六月七日再建となっている。現社殿は昭和十二年より改築に着手し同十四年に竣工した。

 新編武蔵風土記稿には次の様に載ってゐる(2)
杉山社 (海辺ノ西ノ方六十間ノ余引入テアリ社地ハ山ノ上ナリ里正八郎右衛門カ抱地ニテ別当ハ竜泉寺ナリ□正八年ヨリ前ノ勧請ナルコトハ分明ナリサレトソノ初メヲ伝ヘス前ニ石ノ鳥居ヲタツ両柱ノ間一丈勧請ノ年代詳ナラス神体ハ古キ仮面ナリト云ソレモ神輿ノ内ニ深ク秘オキテタヤスク拝スルコトヲ免ササレハイカナル面ト云コトヲ知ラス又別当所ニ神体ト覚シキモノアリ其図左ノ如シ)

(コレ華蔓ナトノ類カ杉山明神ハ式内都築郡ノ神社ナリ夫ヲ勧請セシナルヘシ又此文ニヨレハ本地ハ不動尊ナルヘシ又棟札二枚アリ其一ハ慶安三年八月二十四日ト記シ時ノ御代官伊奈半十郎及ヒ手代ノモノノ交名ヲシルセリ又元禄十六年二月ノ棟札ニモ伊奈半左衛門カ名ヲ記セリ例祭年々六月六日神輿ヲ出シ同十一日社ヘカヘルト云)
註 華蔓:けまん。仏堂における荘厳具のひとつ、花鬘、花縵とも(3)
  □正八年:天正八年(大日本地誌体系による)
  慶安三年:1650年
雑記  京急の生麦駅から西へ0.3kmの所に鎮座してゐる。比高30m弱の丘上へ長い階段を登って社前に至る。

 東海道は、原神明社の直ぐ南を東北東から西南西へ通ってゐた。風土記稿に「海辺ノ西ノ方六十間ノ余引入テアリ」とあるが、距離が合はない様に思ふ。

 石像物に、日露戦役記念之碑、参道修復駒寄寄進の碑(昭和五十三年七月吉日)があり、狛犬(階段を登った所)は明治十三年再興とある。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

鳥居は昭和十四年八月建之。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

鳥居には、「天明元辛丑歳六月吉日」とある。天明元年は西暦1781年。

写真3 境内
写真3 拡大 (1280×960)

境内

左から、灯籠、手水舎、舞殿(赤い屋根)、拝殿、杉山神社保育園

写真4 拝殿
写真4 拡大 (1280×960)

拝殿

写真5 社殿側面
写真5 拡大 (1280×960)

社殿側面

写真6 拝殿内
写真6 拡大 (1280×960)

拝殿内

写真7 祖霊社社前
写真7 拡大 (1280×960)

祖霊社社前
石碑には次の様に刻まれてゐる。
此ノ御社ハ支那事変 大東亜戦争デ祖国ノ平和ヲ求メテ戦死シタ三百数十柱ノ英霊ヲ慰メルタメ昭和二十五年七月十五日ニ建テラレマシタ 当時木造ノ御社デシタガ永イ年月デ老朽ノタメ地元有志千伍百余名ノ尊イ募金ニヨリコノ様ナ永久保存ノ御影石造リノ御社トシマシタ
後世ノ方々ニイツマデモ慰霊ト平和ノ祈リヲ願ツテ
 昭和六十三年一月十五日
  祖霊社奉齋会  遺族一同
  杉山神社奉賛会 一同
 昭和四十四年十一月に祖霊社の由緒書も大きな板に墨書され掲げられてゐるが、文字は半分ほどがかすれてゐる。
 また、氏名と写真も掲げられてゐる。
 社殿に向って右斜め前には石碑があり、上記板に墨書された由緒が刻まれてゐる。次の様。(漢字は正字体を使用してゐるが、当用の字体に置換へた)
祖霊社
此のお社は昭和二十五年七月生麦出身の大東亜戦争の犠牲者三百数十柱をお祀りしたもので祖霊社と名付け爾来毎月十五日を月例祭とし春秋三月と九月の彼岸の仲日及び創立記念日七月十五日と正月十五日を大祭日と定めすでに二百三十三回の慰霊祭を遺族と共に奉斎して今日に至っております 当時米軍軍政下英霊と称うるに憚りあり為に明治神宮鷹司宮司にお願ひしてその扁額を祖霊社と書いていただいたものです
杉山神社神霊とともに郷土の守護神として永く祖国平和日本の英霊として広く崇敬していただきたいと思ひます
 昭和四十四年十一月
    祖霊社奉斎会
     会長 塚田雅悦


写真8 祖霊社社殿
写真8 拡大 (1280×960)

祖霊社社殿

写真9 境内社
写真9 拡大 (1280×960)

境内社

向って右は、道念稲荷社。生麦4丁目の道念稲荷神社の石碑によれば「一説によれば竜泉寺に寄食せる道念和尚が村人の信仰を受け、竜泉寺より當地に社を建て竜泉密寺と記された木片と観音堂を祀り、道念稲荷と称されて現在に至る。尚、竜泉寺境内に元社、杉山神社には分社が祀られている」(4)といふ。
 また、「郷土史家の池谷健治氏の説によれば、建武の昔、南朝の重鎮新田義貞の子義興が延文三年十月十日、矢口の渡しにおいて、竹沢右京亮、江戸遠江守らの謀にかかって憤死した折、従者の一人道念坊が逃れて、岸谷の奥房野に庵を結んだとの事」「奥房野道念稲荷は明治になって杉山神社境内に遷座しました」といふ(5)


出典・脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』 巻之六十六 生麦村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  2. 『神奈川県神社庁誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.7
  3. 令和3年1月31日閲覧 wikipedia 華鬘
  4. 生麦4丁目鎮座の道念稲荷神社社頭の石碑による。
  5. 令和3年2月8日閲覧 神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識の道念稲荷神社からの孫引

改訂記録
  • 令和06.03.12 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 神社庁web神社情報のリンク修正。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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