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放生津八幡宮(富山県射水市八幡町)

作成日 平成28年3月7日
よみ  ほうしょうず はちまんぐう
参拝日  平成26年11月22日(土)
所在地  射水市八幡町2-2-27 (北緯36度46分50.41秒 東経137度5分40.29秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP 放生津八幡宮  Wik 放生津八幡宮
祭神  
由緒  県社。境内には観光協会名の案内板があった。
放生津八幡宮

 天平十八年(746)、越中国司として赴任した大友家持が奈呉之浦の風光を愛して豊前国(大分県)から宇佐八幡神社を 勧請して奈呉八幡宮と称し、正和年間(1312〜)に越中守護名越時有が社殿を造営したと伝えられる。
 室町時代には、放生津が石清水八幡宮領となり、放生津湊に出入りする船の課役を八幡宮が担うようになった。
 明応の政変(1493)を避けた室町幕府十代将軍足利義材(義稙)が放生津を御座所とした頃、当宮から出された金塗の 御輿が放生津の街を巡行した。
 永禄六年(1563)越中一向一揆勢・神保氏。椎名氏連合軍と、上杉謙信との合戦によって、社殿を焼失するが、まもなく 神保長職が再興したとされ、天正九年(1581)には、「放生津八幡領町」として、当宮とその周辺が、放生津の中心地となっていた。
 江戸時代には、歴代加賀藩主に崇拝され、嘉永三年(1850)、十三代藩主、前田斎泰が参拝した際には、当宮裏手に砲台場を 設けるために視察した。
 安政四年(1857)、当地出身の知恩院第七十一世萬誉上人の依頼により左大臣近衛忠煕が真筆の神額を奉納した。
 現在の社殿は放生津の宮大工高瀬輔太郎の傑作で、文久三年(1863)の再興である。
 毎年十月一日、秋季渡御に供奉する豪華な曳山は、慶安三年(1650)の創設と伝えられ、文久二年(1862)に、 現在まで伝えられる十三町の曳山が出揃った。
 翌十月二日の例大祭には、境内東側に飾られる筑山や地名の由来となった放生会神事など、古代の素朴な信仰の姿や 神仏習合を継承する貴重な民俗行事が行われる。
   平成26年2月(一社)射水市観光協会
名越時有:なごやときあり   足利義材(義稙):あしかがよしき(よしたね)   神保長職:じんぼながとも   前田斎泰:まえだなりやす   萬誉上人:まんよじょうにん   近衛忠煕:このえただひろ

雑記  当社へは、万葉線東新湊駅から西北西へ500mのところにある。北へ100mも行かないうちに港に出る。景勝の地とは思へなかったが、 昭和21年の航空写真を見ると潟湖である越の潟がある。今は一部が埋め立てられ富山新港となり、お社北西方の海岸線は埋め立てられ公園になってゐる。

 この日は、万葉線の始発に乗って終点の越の潟までいって、12.9kmの全線乗車。 赤い塗装のMLRV1000型は2輛固定編成、低床で乗りやすく、窓が広いので乗ってゐて気持ちが良い。高岡駅からだと所要49分。 写真を撮影し、3分後の折り返しに車掌に促されて乗り、二駅目の東新湊で下車。
 「射水市」に違和感があった。住所には「射水市」とあるから、間違いは無いのだが、地図で「新湊」の文字を見つけて、合併したのか? と気づいた。 調べたところ、平成17年11月に小杉町、大門町、大島町、下村と合併し、郡名を取った射水市になってゐた。

木製の狛犬があり、説明額には次のやうにあった。

市指定文化財放生津八幡宮狛犬

 拝殿に安置する一対の木彫大狛犬は、開講の阿狛犬(高160cm)閉口の吽狛犬(高さ150cm)ともケヤ木の寄木造りで、 弘化三年(1846)奈呉町釣方漁師連中の寄進されたものである。
 作者の矢野啓通(たかみち)(茂三郎、孝通、古城、奈呉舎、出目啓通ともいう。)は、本市(法土寺村)の出身で、 文政十一年(1828)生まれ、若冠十九歳の作品である。幼少より木彫の天才といわれ、深掘りに特色があった。 狛犬の制作にあたり加越能三州各地の神社を巡拝し、狛犬の形状を研究したが満足するものがなかった。たまたま立山・雄山神社の 狛犬にヒントを得て完成したという。
 明治六年より宮内省の御用達をつとめ、帝室博物館創立のとき納入した献納品は、天王御璽の御印台、三重玉台、六脚二重御卓、 八方八脚彫龍、六方面、朝倉面等数十点に及んだ。
 昭和六十年三月
         放生津八幡宮

 最近岡山のほうで備前焼の狛犬が盗まれるといふ事件があった。困ったことだ。

 境内社に、来名戸社、祖霊社(祭神 大伴宿禰家持卿)がある。





朝の7時過ぎ、子供達20人ほどが参拝に訪れてゐた。


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