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氣多神社(富山県高岡市伏木一宮)

作成日 平成28年3月12日
よみ  けたじんじゃ
参拝日  平成26年11月22日(土)
所在地  高岡市伏木一宮10-1 (北緯36度48分0.81秒 東経137度2分39.35秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  気多神社(Wiki)
祭神  大己貴命(おおなむちのみこと)
 事代主命(ことしろぬしのみこと)
 菊理媛神(ぬなかわひめのみこと)
 奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)
由緒  県社 明神大
 境内にあった案内板の一部を転記(横書き)
越中国一宮 氣多神社 略史

天平 四年 732年
 能登国一宮氣多大社より御分霊(大己貴命)を勧請され、氣多大神として御鎮座賜り越中国一宮氣多神社となる。
天平十八年 746年
 十五位下大伴家持 第二代越中国守着任 ─ 751年まで
天平宝字元年757年
 能登四郡が分立し、越中国は射水・砺波・婦負・新川の四郡となる。
延長 五年 927年
 当社は、越中国三十四座の明神大一座として神明帳に登載される。
文治 三年 1187年
 源頼朝が北陸道及び畿内に宣旨を下し源義経を捕らえさせたが、義経は逃れ北陸道に入り如意の渡しを過ぎて行く。
天文 年中 1550年
 上杉謙信の兵火により当社は焼失する。
天保 二年 1645年
 加越能大守 前田利常侯、当社を崇敬し神殿、拝殿等を再建する。
慶安 三年 1650年
 前田利常候が車両十万石を寄進して子 綱紀の安全息災を祈願する。
明治 二年 1869年
 廃仏毀釈の令により当社本地仏が旧国分寺跡の薬師堂へ遷す。
明治 六年 1873年
 文化財保護法により、本殿が国の重要文化財に指定された。
昭和二十五年1950年
 社殿修理のため為(ママ)、本殿の解体工事着手する。(工事費…340万円)
昭和四十四年1970年
 氣多神社消防隊が結成された。
昭和五一年1970年
 本殿の屋根柿葺(こけらぶき)替工事完了
平成 八年1996年
 氣多神社のにらみ獅子、高岡市指定無形民俗文化財に指定された。
 婦負:ねい  新川:にいかわ

大伴神社脇に建ってゐる大伴神社御由緒碑
   御祭神  大伴宿禰家持卿 一座
 中納言従三位大伴家持卿 世界に誇る古典万葉集の主たる編者として 成立に尤も重要なる地位を占め 自らも万葉集を代表する大歌人たり
 天平の代 満五年に亘る越中国守として 聖武天皇の御信託に応え 國務に 恪勤してよく田地墾開の實を挙げらる また在任中の数多き歌詠を万葉集に 撰録し郷土の自然の美を古今中外に拡め以て万葉のふるさと の名を今日あら められしなり
 卿の功績は青史にとどまつて 不朽の異彩を放ち 郷土への思○は 永久に 伝承されて 子々孫々に至るまでその胸奥に生きん
 卿薨じて満壱千貳百歳を迎う 千古不滅の偉績を顕彰し万世の後々まで 敬仰すべく 在天の御霊を越中一宮の由縁の地に迎え祀らんと 同志相はかり 遍く勧進を得て この社を建てしものなり
   昭和六拾乙丑年四月 建之
                大伴家持卿顕彰會
雑記  氷見線伏木駅から北西へ1.5km。同線越中国分駅からは南西へ0.8kmだが、道のりにするとわづかに近い程度だ。

 新湊(放生津八幡新屋神社)をたったあと、万葉線の中伏木駅(射水市)で降りて長さ610mの 伏木万葉大橋を通って小矢部川(おやべがわ)の左岸に渡った。上流側に伏木港があるからか、高い位置に設置されてゐる。歩道が付いて ゐるので安全に歩けるが、その分橋が長いし上り坂になってゐる。景色はすばらしい。
 この橋の辺りに如意の渡しがあったといふ。伏木万葉大橋が開通したのと同じ平成21年8月2日に廃止されてゐる。歩く人にとっては料金が 必要なものの時間は短いし歩く距離も短く、渡しの方が楽ができたに違いない。もっとも歩行者には会はなかった。自転車1台と行き違ったのみだったから この橋が無くても採算はとれなかったのでは?  

 気多神社社務所入り口を左に見てそのまま行くと「気多神社の清泉」があり水が流れ出てゐる。少し先には長い石段がある。境内は大きな木が多く 薄暗い感がある。拝殿の前まで来た時はちょうど九時。参拝した後、案内板の略史や宝物の説明を読んで本殿の向拝を見ると黒い額様のものが見えるので、 写真撮影を試みた。あとで見ると何とか気多とあるのが判る。藤原行成の書。空海書の扁額は気がついたら半分写ってゐた。何枚か撮るのだった。 
 『義経記』には、奥州に落ちのびる源義経が如意の渡しに乗船しようとしたとき、渡守の平権守に義経であることを見破られるが、 弁慶の扇で義経を打ちすえるといふ機転で無事に乗船できたといふ話があるといふ。(話は聞いたことがあるが、脚色されてゐたかもしれない)
 境内社の大伴神社は、大伴家没後1200年にあたる昭和60年(1985年)に、気多神社社殿の左側に造られた新しい神社である。 参道入口には、向かって右には気多神社、左には大伴神社の社号標が立ってゐた。大切にされてゐる表れだらうか。
 神社由緒のほかに、大伴宿禰家持卿顕彰碑がある。こちらも昭和六十年に建てられ、八百文字ほどが刻まれてゐる。


拝殿

本殿(永禄年間に再建された。三間社・流造・こけら葺)

本殿向拝。真ん中の黒い文字は「氣多大社」(藤原行成書)の内の二文字、右端の一部が写っている額は「一宮」(空海書)

大伴神社

大伴神社



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