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高岡市護国神社(富山県高岡市古城)

作成日 平成28年2月29日
よみ  
参拝日  平成26年11月22日(土)
所在地  高岡市古城 (北緯36度44分49.44秒 東経137度1分11.91秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  
祭神  殉国の英霊
由緒  「昭和8年に創建され、昭和37年に現在の地ニの丸へ移転されました」(高岡古城公園webサイトより)
 射水神社の末社
雑記  JR高岡駅からは北東へ800mの所、古城公園内にある。
 道路を隔てた向かひには市民会館があって人の出入りが多いのだが、当社に寄る人は無くひっそりとしてゐる。
 狛犬は昭和8年に高岡市特志消防隊が奉納。馬は高岡市連合遺族会が奉納したもの、制作日本銅器株式会社、原型都賀田勇馬、石工山岡石材店 社号標は昭和十五年に帝国在郷軍人会高岡市聯合分会が奉納したもの。在郷軍人会の文字はセメントで埋められてゐる。
 護国神社といふと、何の戦役で何人、その他の諸々の殉職者が何人と、どういふ英霊が祀られてゐるのか案内があるものと思ってゐたが、 必ずしもさうではないやうだ。当社や、平成25年6月に参拝した天上山護国神社、 平成27年7月に参拝した帯広護国神社も案内が無かった。
 と思ひながら碑文を読んでみると、・・・・2881柱とある。
忠魂永存
越中ハ北陸ノ中部ヲ占メ其ノ主要地タリ背ニハ万葉時代ノ巨匠ニシテ越中ノ國守タリシ大伴家持ノ賦シタル立山ヲ負ヒ 前ニハ中世ノ雅客ニヨリテ歌ハシタル有磯海ヲ抱く大小ノ川ハ日本ノ中央山脈ヨリ發シ國内ヲ貫キテ日本海ニ入ル斯ノ 如ク山岳ノ険水土ノ利風光ノ美農工商ノ便皆備ハル所謂地ノ利ヲ得タルモノニ○シ然モ其ノ民俗ハ強毅ニシテ勤勉堅忍 ニシテ目王○シテ高岡ハ慶長年間藩主前田利長カ築城シ其ノ晩年ヲ送リタル地ニシテ百工技芸皆此処ニ○リ集リ尓来三 百有餘年鬱然トシテ越中文化ノ要都タリ明治維新ノ大改革以来万機公論ニ決スルノ誓文ニ由リ一君萬民ノ憲法ニ遵ヒ國 民ヲ挙ゲテ政治ニ参與セシメ一國の独立ト其ノ権益擁護トヲ以テ全國民ノ責任トシ此ノ如クシテ明治時代の國運ハ國史 上未曾有ノ發展ヲ来タセリ其ノ間ニ於テ明治二十七八年役アリ明治三十七八年役アリ尓後幾多ノ戦役アルモ固ヨリ國家 自衛ノ止ム可ラサルノ挙タラサルナシ特ニ大東亜戦争ニ到リテハ我ガ日本ノ東亜ニ興隆スルヲ見テ之ヲ挫折セシメンガ 爲ノ大陰謀ニシテ其ノ極所謂ABCの外國勢力カ我カ國家ノ生存ヲ脅カシタル爲ニ已ムヲ得サルニ出テタル自衛的戦争 ナルコトハ戦後十年今ヤ世界識者ノ公論トナスmタ當事者其ノ大計長策ヲ誤マリ緒戦ノ有利ナルニ拘ラス遂ニ不幸ナル 終結ヲ齋シタルハ痛嘆ニ堪ヘサル所ナリ然モ其ノ効果ノ赫灼昭著ナル東亜諸民族ノ覚醒ヲ招来シ其ノ振起ヲ促進セシメ 延イテ阿弗利加方面ニ波及シツツアルコトハ最近ニ於ケルバンダン会議ニ徴シテモ亦明白ナリ即チ大東亜戦争ハ其ノ歴 史的結論ヨリ見しハ世界革新ノ一大動機ノ根原ト謂フ可キモノナリ我カ高岡市民ニシテ如上ノ各戦役ニ身ヲ國家ニ献ケ タルモノ實ニ二千八百八十一柱今ヤ高岡市ノ有志者ソノ忠魂ヲ慰メンカ爲ニ建碑ノ議ヲ決シ而シテ其ノ一人者杉多吉郎 君ハ感スル所アリ慨然自カラ進ンテ碑石ヲ献納セリ石高二十六尺幅七尺五寸厚二尺其ノ重量二十九頓而シテ高岡市ノ有 志諸君子ニ其ノ文ヲ徴ス予今老タリ然モ誼河ニ辞ス可ラサルモアリ及千其ノ梗概ヲ記シテ更ニ百○ノ下後昆ヲシテ其ノ 國家ノ爲ニ身ヲ以テ忠誠ヲ致シタル霊位ニ矜式スル所アラシムト云爾

          火國後学 蘇峯コ富猪一郎撰頽齢九十三    静峰塩崎彦書□□
文中に戦後十年とあるので昭和30年の建立だらうか。


春は桜が綺麗なのかもしれない

忠魂碑(文字が浮き彫りになってゐる)


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