由 緒
別表神社、旧村社。
平成14年の掲示には次のやうにある。
来宮神社の由来
御祭神 大己貴命(商売繁盛・縁結び・温泉の神)
五十猛命(樹木の神)
日本武尊(決断の神)
社伝によるとおよそ三千年有余前大己貴命(大国主命)が国を治めるため遠い西の国(現在の島根県)より諸神を率いて海を渡り伊豆の国のこの地に(現在の熱海の海岸)に上陸されて此の地方をお治めになり、ここは温泉に恵まれ季候風土よく、その上諸物資ノ豊かな所なので、非常にお喜びになり、ここに居を定められ、当神社が其の跡と伝えられている。その後第十二代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をおまつりし、第四十三代元明天皇の御代に(約千三百年前・和銅三年)五十猛命をお祀りしたと伝えられている。
大楠の由来
大昔の大楠を御神体として、よろずの人が信仰していたもので、いわうるひもろぎ神社であった。樹齢は二千年以上と謂われております。古くからそのまわりを一週廻る毎に一年間生き延びると伝えられ、廻った人は医者いらずといい、一名不老の楠とも呼ばれている。此の大楠の由来は宮地直一・加藤玄智両博士の著書にも明らかである。昭和八年二月二十八日に文部省より国定の天然記念物に指定された。
願事の由来
一、縁結びの神 縁結びの神として古くから知られ今も遠近の人より良縁の幸福のご利益があるので、信仰が厚い。
一、商売繁盛・宅地造成・温泉守護の神 昔から商売繁盛・宅地造成・温泉守護の神として信仰が厚く、御家繁盛の為ここを詣でる人の絶え間がない。
一、酒断ちの神 古くから酒断ちの神として近くは関東、遠くは関西に至る迄大神の御神徳が拡まり、酒の為家庭を破壊し病に悩み身を滅ぼさんとする人は、期間を定めて酒を断ち、大神の御利益により数多くの人が救われている。その他諸々に願事を大神にすがり、大願成就して日夜詣でる人は絶え間がない。
平成十四年一月吉日 別表社 来宮神社 牧野鳳仙謹書
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このほか、昭和五十二年奉納の石碑「来宮神社由緒沿革」には上記の外、今上天皇(昭和天皇)の皇太子殿下の御時の御参拝ほか皇族方の植樹などの事跡が記されてゐる。また、御神徳については簡潔な記述に留まり、歌二首が添へられてゐる。
大楠についても複数の案内板があり、その一つには次のやうにある。(設置等の日付は記載なし)
由緒(いわれ)
太古には我国では現代の様な家屋はなく文字もなく言葉ばかりの時代が長く続いていました。其頃此の社の森には七本の楠や椎の木、細葉の大木、羊歯類等が自生していて昼なを暗く大地を覆っていました。ところが今から約百二十余年前の嘉永年間と云ふ年に熱海村に大網(おおあみ)事件と云ふ(流刑者(しまながし)迄出した)全村挙げての大事件が勃発し其の訴訟費など捻出するため、五本の大楠は伐られてしまったのです。現在残されている其の中の一本の此の大楠をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ忽然として白髪の老人が現れ両手を拡げて此れを遮ぎる様な姿になると忽大鋸は手元から音をたてて二つに折れ同時に白髪の老人の姿は消へてしまったのです。此れは神のお諭しであるとして村人等は大楠を伐る事を中止してしまいました。此の木が即ち現在ある御神木であります。(後略)
転記者注 嘉永は1848〜1855年、平成30年を基準とすると163乃至170年前、事件は漁業権をめぐるもの
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社名は「古くは『木宮明神』や『来宮大明神』などと呼ばれ、明治維新後、式内社『阿豆佐和気命神社』に比定されたため、『阿豆佐和気神社』(あずさわけじんじゃ)を称したが、その非が判り現社名に復称した。」(Wikpedia)といふ。右上に掲げてゐる国土地理院の地図には「阿豆佐和気神社の大クス」とあるのは指定当時の社名に由来してゐるといふ。
| 雑 記
| 熱海駅から西南西へ0.9km、来宮駅から北東へ0.3kmのところにある。
以前から訪れて見たかった社で、どんな楠なのか見たかった。
境内にはカフェがありテラス席もあった。私には違和感を感じさせたが、多く訪れてゐる若い人達にはお洒落と感じてゐるのかもしれない。
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