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静岡天満宮(静岡県静岡市葵区呉服町)

作成日 平成26年11月9日
よみ  
参拝日  平成25年8月3日(土)
所在地  静岡市葵区呉服町1-1 (北緯34度58分34.9秒  東経138度22分45.2秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  静岡天満宮
祭神  菅原道真公
由緒  「特異な『静岡天満宮』」と題して紹介文(横書)が掲示されてゐた。
 農耕民族である日本人は、自然の恩恵と脅威とを感じつつ生活を営んで来たので、個の自然の力を充分に知って、 五穀豊穣と無病息災を祈願して、身近にある山の嶺や麓、川の中州や岸辺、森の奥、海の磯辺の傍らに、この自然神を祀った。
 この自然神は「天神地祇」であり、この「天神」(てんしん 清音)と、無実の罪で九州太宰府に流されて謫所で逝った菅原道真公の 神号が「天満大自在天神」の「天神」(てんじん 濁音)とが重なって、天神社と言われていた神社の大半が、菅原道真公を祀るようになった。 菅原道真公は、鈴鹿の関東方へは出向いていないにもかかわらず、現在天満宮が全国各地に存在しているのは、その土地の有力者や豪士、 城主等が学問の神「菅原道真公」を尊崇して、勧請して祀ったり、太宰府天満宮や北野天満宮に所属する神人(じにん)・御師(おし)という 布教師たちが全国の地方に道真公の御神徳を説いて廻ったからである。
 こうした中で、「静岡天満宮」が菅原家と直接結びつきのある神社であるのは、次の理由による。
 菅原道真公が無実の罪により、九州太宰府に流された昌泰4年(901年)1月25日の翌々日に長男高視は土佐に、 三男兼茂は飛騨に、四難淳茂は播磨に流され、次男景行は駿河権介(するがのごんのすけ)に降格されて、 この駿河の国府に流されたのである。この駿河の国府は現在の「静岡天満宮」を中心とする中町、追手町一帯であった。次男景行は 此処に居住した。このような理由で菅原道真公と次男景行父子を祀る「静岡天満宮」は東国地方では稀な菅原家と直接つながりをもつ 特異な天満宮なのである。
HPには「天神信仰の原点」として「昔、川中天神と呼ばれていた。まだ安倍川の経路が定まらなかった頃、流れの中にひときわ目立つ石があった。 それが天の神の降臨する所として祀られるあいだに、いつしか川中天神と呼ばれるようになった。」と歴史が古い事を示してゐる。
雑記  東海道本線静岡駅から北西へ1.0kmのところにある。

 境内社に「静銀稲荷神社」、「景行社」(摂社)があり、それぞれ次のやうに由緒が案内されてゐた。

静銀稲荷神社
静岡天満宮末社
 静銀稲荷神社 御由緒

御祭神
御祭神は稲荷大神です。
昭和二十年終戦後、進駐軍が静岡に入り、大企業に立入り調査を行った折、(株)静岡銀行の守護神として社内に祀っておりました稲荷社を 直ちに撤去廃棄すべしと命ぜられ、銀行側は検討の結果、御神体を隣接する静岡天満宮(当時は天満天神社)に保管祭祀を依頼し、 神社側もこれに応じて静岡天満宮真社「静銀稲荷社」として現在の場所に鎮座奉斎したのです。以来初午祭には静銀本店営業部の責任者が 参拝する習わしとなったのです。
御神祠
この御神祠は明治初年から昭和三年まで静岡天満宮(当時は天満天神社)のご本殿として鎮座しておりましたが、昭和四年 新たに御本殿を造営するにあたり、市内宮本町山下家に譲渡し同家にて同家の守護神を奉斎されていましたが、同家の事情により この神祠を処分することになりましたので、昭和五十四年二月同家より静岡天満宮の地に還御しこれと同時に、従来静岡天満宮の 本殿に合祀しておりました静銀稲荷社をこの神祠に奉斎して、今日に及んでいるのです。
 (昭和四年竣工の御本殿は、昭和二十年六月戦災にて焼失)

景行社(かげつらしゃ)(縦書)
静岡天満宮摂社 景行社 御由緒
昌泰四年(901)一月二十五日菅原道真公が無き罪により太宰府に流された翌々日公の子息達も夫々別々の地に流され次男景行も 駿河権介に左降されこの駿河の地に流されここ駿河の国府に居住した この国府は現在の静岡天満宮を忠信とした一帯の地域である その後景行の記録が定かでなく今日に至ったので道真公を祀る静岡天満宮を崇敬する有志が景行を祀ろうということになった折も折 大阪市天王寺区の一行者(鎌原氏)や清水区三保の行者(日蓮宗)に「景行を祀れ」との道真公の託宣があったとのことなので平成 元年春に景行社を創祀したのである
(平成二十年と九月二十五日 再記)


平成25年8月3日撮影

平成25年8月3日撮影

平成25年8月3日撮影 静銀稲荷神社

平成25年8月3日撮影 景行社



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