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東丸神社(京都市伏見区深草藪之内町)

  
参拝日 令和2年10月28日(水)
作成日 令和3年3月21日(日)
改訂日 令和6年3月5日(火)
 
よみ  ひがしまろ じんじゃ  
所在地  京都市伏見区深草藪之内町36
  (34度58分0.23秒 135度46分22.20秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  Wikipedia:東丸神社
 当社HP
祭神  荷田東丸命(かだあずままろのみこと)
由緒   単立
 境内の掲示には次の様にある。
東丸神社由緒略記

祭神  荷田東丸命(かだあずままろのみこと)
鎮座地 京都市伏見区深草薮之内町

祭神荷田東丸(春満(あずままろ))大人は寛文九年(1696年)正月三日この地に誕生、本名は羽倉信盛(はぐらのぶもり)と申し幼少より歌道並に書道に秀れ、長じては国史、律令、古文古歌、さては諸家の記伝にいたるまで独学にて博く通じ、殊に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立返らしめんとしました。元禄十年、廿九才の時から妙法院宮に歌道の師(*)として進講されましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたため、書を学ぶ者皆極端に漢風にのみ走るをみて、古学廃絶の危機にあるを憂え、古学復興こそ急務であるとして
  われならで かけのたれをの たれかよに あかつきつぐる こゑをまつらむ
の一首をのこして、文化の中心たる江戸に下向されました。江戸在住の間、大人はあえて師を求めず、日夜独力孜々として研鑽、傍ら門人達に古学を講じましたが、その卓越せる学識は世に聞え高く、享保七年将軍吉宗は大人の名声を聞きつたえ、幕府の蔵書閲覧をことごとくたのみましたので、大人はその間違いなどを訂正し不審の点は細かく説明されました。その後も吉宗将軍より建議並に百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ、偽本の跡を絶たれました。享保八年錦衣帰郷された後も、日夜研究著述を旨とされる傍ら賀茂真淵など門人多数に講義されておりましたが、古学普及のためその宿頑たる倭学校を東山の地に創建せんとして幕府に提出すべく「請創造倭学校啓」を著されましたが志もむなしく、享保十五年病を得、ついに元文元年七月二日六十八才をもって帰天されました。東丸大人には著書が夥しくありましたが、そのうち研究の未だ足らざるものを残すは却って後世に災ありと学者的良心から、その臨終に際し侍床の童子に命じて手近なものは焼かしめられましたが、今なお神祇道、日本史、律令、格式、有識、古実、歌学及び語釈に関する遺著及び遺墨が多数残っています。されば大人の学徳を偲ぶ有志の人々相寄って荷田旧邸の一部であるこの地に社殿を創建し爾来「学問守護」の神としてひろく崇敬されることとなりました。
  東丸大人と赤穂義士
東丸大人の逸話のうちで、江戸在住中多数の門人に古典古学を講じておられました。吉良上野介もまた教を受けた一人でありましたが、大人(通称羽倉齋(はぐらいつき))は彼の日頃の汚行を見聞するに及んで教えることをやめられました。たまたま元禄十五年に以前から親交のあった大石良雄の訪問を受け、その後堀部弥兵衛同安兵衛、大高源吾等とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、十二月十四日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂義士を援助したこともありました。
  なお当社は御祭神の邸跡の一部に建っていますので伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社である事を御承知下さい。

 荷田東丸は、国学の四大人の一人
 神社建立は、1883(明治16)年
雑記  奈良線稲荷駅から東へ0.2kmの所にある。伏見稲荷神社へ向ひ神門を過ぎて右手に当社がある。

 神社の名は、「ひがしまる」としか思へなかったが、読みの欄記入にさう書くのはためらひがあった。確認を、と確証を求めてゐたら、祭神の荷田東丸は「ひがしまろ」と読むので、神社名も同じと思はれる。当社HPにも読みが記されてゐなかった。一般には常識なのかな。

 荷田氏は伏見稲荷大社(当時は伏見稲荷神社)の社家。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

写真3 境内社
写真3 拡大 (1280×960)

境内社
鳥居をくぐって右手にある。向って左側は荷田社(かだのやしろ)。荷田東麿の遠祖四霊を祀ってゐる。社殿脇の由緒掲示には次の様にある。
荷田社は東丸神社祭神荷田東丸命の遠祖荷田殷、嗣、早、龍の四霊を合祀しています。和銅四年稲荷大神稲荷山三ヶ峯鎮座の際、最初に奉仕したのか第二十一代雄略天皇の皇子磐城王の裔である荷田殷であつて爾来荷田家は代々稲荷社正官御殿預職をつとめましたが、この祖神のうち特に龍は高徳で学問をよくし弘法大師とも親交あり、龍頭太夫、龍頭太などと称せられました。
(中略)
また毎年十二月十三日を荷田祭と称し祭典が行われ毎月十三日に月並祭が斎行されます。
向って右は春葉殿。

御朱印
写真4 拡大 (1280×960)

御朱印


出典・脚注
  1.  ─

改訂記録
  • 令和06.03.05 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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