神社訪問記HP > 京都府 > 京都市
|
| 下御霊神社(京都市中京区下御霊前町)
参拝日 令和2年10月30日(金)
作成日 令和3年3月27日(土) 改訂日 令和6年3月5日(火) |
よみ | しもごりょう じんじゃ | |||
京都市中京区下御霊前町634-2
(35度1分0.61秒 135度46分4.45秒) 地図:地理院地図(ズームレベル15) いつもNAVI(ズームレベル13) | ||||
地図 | 参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
| |||
HP等 | ・Wikipedia:下御霊神社
・当社 HP | |||
祭神 | 吉備聖霊(六座の神霊の和魂(にぎみたま))
崇道天皇(桓武天皇の皇太子、早良(さわら)親王) 伊予親王(桓武天皇の皇子) 藤原大夫人(ふじわらのだいふじん)(伊予親王の母、藤原吉子) 藤大夫(とうだいふ)(藤原広嗣) 橘大夫(きつだいふ)(橘逸勢(たちばなのはやなり)) 文大夫(ぶんだいふ)(文屋宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)) 火雷天神(からいのてんじん)(六座の神霊の荒魂) 相殿 天中柱皇神(あめのなかはしらのすめかみ)(霊元天皇) | |||
由緒 | 元 府社
当社HPによると「平安時代に冤罪を被り亡くなられた貴人の方々の怨霊をお慰めして御霊(ごりょう)として、その当時からお祀りしてまいりました。疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として崇敬されてきました。」とある。 Wikipediaからの引用すると、 桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来より京都御所の産土神として崇敬された。 享保年間(1716年 - 1736年)には霊元天皇の霊を配祀している。 とある。 | |||
雑記 | 京阪電気鉄道鴨東(おうとう)線神宮丸太町(まち)駅から西へ0.4km、京都市営地下鉄烏丸線丸太町駅から東へ0.7km余のところにある。
神奈川県平塚市に鎮座する御霊神社は京都の御霊神社より勧請したとしてゐる。平成24年に書いた文書だが、何の疑問も抱かなかった。下御霊神社(当社)と上御霊神社とがあるのを知ってゐたら、書きやうが違ったかも知れない。 |
写 真 (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます) |
写真1 拡大 (1280×960) 社頭 |
写真2 拡大 (1280×960) |
写真3 拡大 (1280×960) 拝殿 |
写真4 拡大 (1280×960) 御本殿 |
写真5 拡大 (1280×960) 御本殿正面 本殿前の掲示には次の様に記されてゐる。 御本殿は天明の大火被災後、寛政二年(1790)に仮皇居の賢所(内侍所)旧殿を御下賜になったものです。賢所とは皇位継承の御証である八咫鏡の別御霊(御鏡)が奉斎され皇祖天照大御神をお祀りされている御殿であります。 つまり現在も宮中の賢所に鎮際されている御鏡が仮とはいえ暫くは祀られていた御殿を社殿用に賜ったのですから誠に畏れ多い事であります。この様な例は上下御霊社、藤森社のみであり、当時の宮廷の神殿を伝えるものとして貴重です。幣殿・拝所・廻廊・拝殿と共に京都市指定有形文化財となっております。 江戸時代中頃に大嘗祭などの朝儀を復興された霊元天皇(上皇)は、晩年に皇室と国の行末を案じて当社に御祈願文(重要文化財)を奉納され、さらに生前から崩御の後は下御霊社に祀るよう御違勅され、御霊八所の神と共に御祀りしております。天皇御自ら臨まれて御祭神として祀られた例は他にありません。霊元天皇の大御心を拝察すれば今もここから皇室と日本国民を御守護されているのです。 |
写真6 拡大 (1280×960) 境内図 |
御朱印 拡大 (450×640) |
御朱印 拡大 (429×640) 垂加社の御朱印。 垂加社は、垂加翁(すいがおう)(山崎闇斎(やまざきあんさい)先生 1619〜1682)を祀る。末社猿田彦社の相殿に垂加社として合祀されてゐる。 |
出典・脚注
改訂記録
文頭へ移動 ホーム(神社訪問記) |