神社訪問記HP京都府 > 京都市

清明神社(京都市上京区晴明町)

参拝日 令和2年10月30日(金)
作成日 令和3年4月3日(土)
改訂日 令和6年3月4日(月)
 
よみ  せいめい じんじゃ  
所在地  京都市上京区晴明町806-1  (35度1分39.90秒 135度45分3.56秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・Wikipedia:晴明神社
・当社 HP
祭神  安倍晴明公
由緒  元 村社 
 当社HP由緒から抜粋。
 創建は、寛弘4年(1007)。
 晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられた。
 創建当時は宏大な社地だったが、応仁の乱や秀吉の都の造営等で規模は縮小し。古書・宝物等も散逸した。
 昭和25年(1950)には、多年の宿望であった堀川通に面する境内地が拡張されるなど、晴明公の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められた。
 平成15年(2003)には、御鎮座壱千年祭が斎行された。
 安倍晴明(延喜21年1月11(921年2月21日)─寛弘2年9月26日(1005年10月31日))は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むことが多いが、これは音読みであり、諱本来の読み方は確定していない(1)、と云ふ。
雑記  京都地下鉄烏丸線今出川駅から西南西へ0.7kmの所にある。  御朱印に「京一条戻橋」とある。何かな、と調べたらWikpediaには次の様にあった。一部引用(2)
 平安京造営に際し一条通りが堀川を渡る橋として架けられたといふ。長い歴史のあいだには様々な出来事があった。平安中期以降は堀川右岸側は衰退が著しいため堀川を渡ることに特別な意味が生じたと云ふ。
 安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという。
 『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇(仁安3年(1168)即位)の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。
 一の鳥居をくぐって左手に、旧橋(平成7年に架け直された)の欄干の親柱を使って、一条戻橋を再現してある。

 本日巡った神社の中で、最も人が多く賑はってゐた。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

一の鳥居の扁額は五芒星の社紋

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

二の鳥居

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

社殿

右手にあるのは御神木

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

手水舎と清明井

御朱印
御朱印 拡大 (1280×960)


出典・脚注
  1. 令和3年3月29日閲覧 Wikipedia 安倍晴明
  2. 令和3年3月29日閲覧 Wikipedia 一条戻橋

改訂記録
  • 令和06.03.04 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)


inserted by FC2 system