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月読神社(京都市西京区松室山添町)

  
参拝日 令和2年12月9日(水)
作成日 令和3年6月26日(土)
改訂日 令和6年3月3日(日)
 
よみ  つきよみ じんじゃ  
所在地  京都市西京区松室山添町  
(34度59分47.49秒 135度41分9.80秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  Wikipedia:月読神社 (京都市)
祭神  月読尊  (つきよみのみこと)
由緒  松尾大社摂社 式内社(名神大社) 

 境内の掲示には次の様に記されてゐる。
 京都市指定史跡
月読神社境内

 月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。
 文献によれば、顕宗三年(四八七)阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)の地に社を創建したとされ、斎衡三年(八五六)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。
 境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御舟社、聖徳太子社などから構成されています。
 月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます。
平成五年四月一日 指定
京都市
雑記  阪急電鉄嵐山線松尾大社駅から南南西へ0.4kmのところにある。

 当社の社家である松室同族會による碑がある。次の様に刻まれてゐる。
式内大社月読社累代祀官遠祖 押見宿祢霊社遺跡 日本書紀によれば 顕宗天皇の三年歌荒樔田に月読社が創祀せられ伊岐県主の祖押見宿称が祀官となったといふ 宿祢の子孫は世々その職を伝へ伊岐を姓としたが 九世紀に入り水害のため神社を奉じてこの地に移るや松室氏を称した 一族栄え十二世紀初めには二条帝の皇后六条帝の御生母育子を出すに至つた 江戸時代十七分家は男子は非蔵人女子は御局として宮中に仕へた者が多い維新後時世変易同族四散するに至つたがこの度血脈を伝ふる者相謀り 曾て押見宿命を祀る霊社も存したこの地に碑を建て 祖宗縁故の由来を記すものである
    昭和四十二年十月
      松室同族會建之

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

写真2
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拝殿

写真3
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本殿

写真4
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本殿側面

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

解穢の水(かいわいのみず)(四時絶えることないお山からの霊水。自己の罪、穢れを除く)

奥に見えてゐる小祠は御船社(おふねしゃ)、「航海安全」「交通安全」の神

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

聖徳太子社(しょうとくたいししゃ)

御朱印
御朱印 拡大 (1280×960)


出典・脚注
  1.  ─

改訂記録
  • 令和06.03.03 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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