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丹生川上神社(中社)(奈良県東吉野村大字小)

参拝日 令和2年11月20日(金)
作成日 令和3年5月22日(土)
改訂日 令和6年3月4日(月)
 
よみ  にうかわかみ じんじゃ  
所在地  東吉野村大字小(おむら)968 
 (34度23分24.55秒 135度59分11.04秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  Wikipedia:丹生川上神社
 当社HP
祭神 当社webより
本 殿
 主祭神 罔象女神(みづはのめのかみ)
 相殿神 伊邪奈美命(いざなみのみこと)、伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)
東 殿
 大日孁尊(おおひるめむちのみこと)(天照大神)
 譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
 八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)
西 殿
 開化天皇(かいかてんのう)・上筒男命(うわつつのおのみこと)
 菅原道真(すがわらのみちざね)公・綿津見神(わたつみのかみ)
 大国主神(おおくにぬしのかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)
由緒  式内社(名神大) 元 官幣大社 別表神社

 参拝時に戴いたリーフレットより 
丹生川上神社の御由緒について
当神社御祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)は水一切を司る神で水利の神として、人は雨の神として称え、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には上雨を祈るなど、事あるごとに心からの朝野の信仰を捧げ、水神の御加護を祈ってきました。
今を去る事千三百年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(六七五年)「人聲の聞えざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を上めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外厚く「延喜式」(九二七年)には名神大社に列せられ、又千安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられ、祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。七六三年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの両乞い、両止めの奉幣祈願が九六度されている事が記録に残っている事からも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上神社もいつしか蟻通神社と呼ばれ、ついには神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり丹生川上神社は何処かと言う研究調査が行われ明治四年丹生村(今の下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別の神社となったが当社は「丹生川上神社」と登記されています。本殿は江戸時代文政十二年(一八二九)の建築で東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌合時代の弘長四年(一二六四)銘で国の重要文化財に指定されています。

 社頭の墨書の掲示は、次の様。(漢字字体、仮名遣は原文通り)
丹生川上神社 旧官幣大社

鎮座地 奈良県吉野郡東吉野村
御祭神 罔象女神
御例祭 十月十六日

当神社は天武天皇白鳳四年「人声ノ聞エザル深山吉野丹生川上ニ我ガ宮柱ヲ立テ以テ敬祀セバ天下ノ為ニ甘雨ヲ降ラセ霖雨ヲ止メン」との御神教により創祀せられ、雨師の明神・水神宗社として上下の尊崇殊の外篤く、天皇の行幸五十数度、祈雨止雨の奉幣祈願九十数度に及ぶ。
又当地は神代新嘗の女神丹生都比賣命が聖水を求めて巡幸せられ、神武天皇建国神話の最高潮を彩る場所として古くより信仰上聖地であり、吉野離宮の故地として喧伝されている。
今日では水道電力等水に関はる人々は勿論、水との縁から商賣繁盛、酒造安全、又受験等の必勝の神として廣く信仰され、御神水を戴かれる人々も多い
雑記  近鉄大阪線榛原(はいばら)駅から南へ15.8km(道程20.7)、近鉄吉野線大和上市(やまとかみいち)駅から西へ12.9km(道程21.6km) 吉野川の支流高見川の右岸側にある。

 由緒(社頭の墨書)に「吉野離宮の故地として喧伝されている」とあるが、吉野町のwebページ(1)には次の様に載ってゐる。
飛鳥時代の天皇、斉明天皇が吉野にお造りになられた離宮です。以来、大海人皇子(後に天武天皇)、持統天皇、文武天皇、元正天皇、聖武天皇などの行幸がありました。特に、大海人皇子が吉野宮に来られた時には、壬申の乱という大きな内乱の起点となり、古代史上、大きな役割を果たしました。また、天皇の行幸と共に、万葉集などの歌が詠まれました。

宮滝遺跡は、飛鳥時代から奈良時代にかけてあったとされる吉野宮の跡と考えられています。宮滝の集落のほぼ全域から、飛鳥時代〜奈良時代の遺物が確認されており、大型の掘立柱建物跡や池状遺構などが確認されています。

吉野宮の正確な所在地は、どの書物にも記録されませんでした。そのため、平安時代には吉野山に、江戸時代には大滝・宮滝・秋津のいずれか(または全部)に、その比定地が求められるようになっていきます。明治・大正・昭和と時がたつにつれて、正確な場所を調べようとする動きが起こり、昭和の初めには論争もおこりました。こうした中で、地元の郷土史家らが宮滝で古い時代の瓦や土器を採取し、遺跡の確認へと繋がった

宮滝遺跡ではこれまでの調査で飛鳥時代〜奈良時代だけでなく、古くは縄文時代から、最近では江戸時代までの遺物も見つかっています。

 宮滝遺跡は当社の下流、 西へ6.7km(道程15.9km)の吉野川右岸側にある。(地図は、 ここ)

 また、当社から東南東へ100m余の対岸に丹生神社がある。下調べ不足だったため、夢淵と東の滝にだけ注目し、丹生神社は参拝し損ねた。当社HPには、摂社であり「丹生川上神社の旧社地として古くから親しみを込めて『本宮ほんぐうさん』と称されています」とのこと。「神武天皇聖蹟碑」も見損ねた。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

写真2 拝殿
写真2 拡大 (1280×960)

拝殿

写真3 手水舎
写真3 拡大 (1280×960)

手水舎

写真4 境内
写真4 拡大 (1280×960)

境内

写真5 夢淵
写真5 拡大 (1280×960)

夢淵

社前から150mほど上流部分。三川(木津川・日裏川・四郷川)合流地点となってゐる。「畏くも皇祖神武天皇親しく天神地祇を祀った聖跡の地」(1)。紅い橋の所から「東の滝」が見える(写真6)。

写真6 東の滝
写真6 拡大 (1280×960)

東の滝(ひんがしのたき)

御朱印
御朱印 拡大 (657×960)


出典・脚注
  1. 令和3年5月19日閲覧 吉野町 宮滝遺跡とは
  2. 参拝時にいただいた栞による。

改訂記録
  • 令和06.03.04 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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