神社訪問記HP奈良県 > 天河村

天河大弁財天社(奈良県吉野郡天川村坪内)

参拝日 令和2年11月21日(土)
作成日 令和3年6月6日(日)
改訂日 令和6年3月4日(月)
 
よみ  てんかわ だい べんざいてん しゃ  
所在地  吉野郡天川村坪内 107 
 (34度13分24.01秒 135度50分30.02秒 )
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  Wikipedia:天河大弁財天社
 当社HP
祭神  市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
 熊野坐大神
 吉野坐大神
 南朝四代天皇の御霊>(1)
 神代天之御中主神より百柱の神
由緒  元 郷社 Wikipediaが判りよく記述されてゐるので、抜粋。
  • 草創は飛鳥時代、役行者の大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのに始まる。
  • 弘法大師空海が高野山の開山に先立って3年間大峯山で修行し、最大の行場が天河神社であった。
  • 社殿の造営はは天武朝で、壬申の乱の際、天武天皇が戦勝を祈願、勝利の後寄進されたという。
  • 天河神社の神殿の下には古代の磐座があり、社伝によれば神武天皇がここでヒノモトの言霊を賜ったという
  • 坪ノ内は、南朝の皇居が47年間置かれた土地といわれており、そのため南朝の崇敬が特に篤かった。
  • 江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命と改められた。
  • 「吉野総社」として列せられていた歴史がある
  • 大峯山に於ける信仰の中心地しての地位を早期に確立していた
  • 弥山(みせん)山頂(1895m)に奥宮(弥山神社)がある。(当社から南東へ7.9km、標高1895m)
雑記  天川村役場から南南西へ2.4km、天ノ川の左岸側にある。天ノ川(てんのかわ)は十津川村内では十津川、それより下流は奈良和歌山県境を越えると熊野川、河口付近は新宮川と名を変へる。
 最寄駅は北ないし北北西へ18.5km(道程26.1km)の近鉄吉野線下市口駅。近鉄吉野線の吉野駅は17kmだが道路事情が悪い(道程31.6km)。

 ツアーのバスは、社前で下車した。
 当社の向ひは来迎院で銀杏の大木があるとバス内で案内があったので見に行った。私の住んでゐる所では銀杏の黄葉はこれからと云ふ状況なので、葉の着いた、運が良ければ黄葉した銀杏が見られるかと思ったが、葉は残らずおちてゐた。標高600m近い当地では、100mに付き0.6℃の低下として計算すると、3.6℃低いことになる。これは平均気温で見ると丁度一ヶ月先の温度となる。

「南朝黒木御所跡」について
 本社のある丘を越えて降りて行くと役行者堂があり、紅い鳥居をくぐって(境内から出たと思った)先を見ると「南朝黒木御所跡」の碑があった。当社とは別と思ったので、写真は御朱印画像の跡に載せた。ただ、当社HPには「境内について」のページでは「南朝黒木御所跡」の写真と説明がある。「史跡は石積みされた塀のみ残されていましたが」とあり、なら旅ネットには明治22年の洪水で宮跡や五輪塔を失った>(1)、と云ふ。
 明治22年(1889)の洪水とは、十津川村から北海道へ移住し新十津川村をつくった原因となった十津川大水害(紀和大水害とも)で、天川村でも斜面の崩落が発生し、名前の付けられた新湖(いずれ崩壊又は越流し下流に被害を生じる)が四つ形成された(2)。 なお、前日訪れた丹生川上神社上社の移転もこの水害への対処(再発防止)としてのダム建設にともなふもの。


 一泊二日のツアーは、当社参拝で、残すは伊丹空港から帰るのみ。
 ツアー料金は、gotoトラベルの補助を受けた割には高いと思ってゐたが、山の中を走ってくれた運転手さんに感謝とともに、料金には納得した。個人で来るには、現地の事情がわからず迷ふことが多く不安がつきまとふが、ツアーだと自由にならないながら、お任せできる安心感もある。他の関係者にも感謝。
 人口の少ない地で神社を維持されてゐるのにも感謝。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

写真2 手水舎と池
写真2 拡大 (1280×960)

手水舎と池

写真3 本社・五社殿への参道
写真3 拡大 (1280×960)

本社・五社殿への参道

石鳥居は柱に「昭和五年四月吉日」「十條製紙株式会社 職員一同」とある。階段を登って左手に社殿がある。

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

登った所の社殿。神楽殿か。拝殿は写真を撮ってゐない。禁止とあったやうな記憶がある。

写真5 御本殿遠景
写真5 拡大 (1280×960)

御本殿遠景

写真の中央より少し上の方に見えるのが御本殿。その下右に五社殿が見える。

写真6 五社殿
写真6 拡大 (1280×960)

五社殿

写真奥から、大地主大神、天神大神、大日靈貴神、大将軍大神、龍神大神

御朱印
御朱印 拡大 (686×960)

写真7 南朝黒木御所跡
写真7 拡大 (1280×960)

南朝黒木御所跡

「なら旅ネット」には次の様に載ってゐる>(1)
南朝史跡。谷瀬の吊り橋を渡った上野地の対岸、谷瀬にある。後醍醐天皇の第3王子、大塔宮護良親王が十津川に逃げ出したとき、豪族竹原八郎が仮宮殿を建ててかくまった御所の跡。明治22年の大水害で、宮跡や竹原八郎の五輪塔などを失った。「黒木」は「白木」に対し、'粗末な' '仮の'という意味を込めている。


写真8 南朝黒木御所跡
写真8 拡大 (1280×960)

南朝黒木御所跡

宝篋印塔(ほうきょういんとう)と建立趣旨の碑がある。碑文は次の様。
南朝北朝和解供養 宝篋印塔建立趣旨

日の本は国土的にも民族的にも世界の中枢であり日本皇統はその中軸にして世界は皇統を独楽の辛棒さながらに轉回しています その皇統に霊的不和がある時は世界は平和を保持し能わず 依って皇統最後の確執たる南朝北朝皇統の霊的和解の御供養を敢行し 世界の平和と人類の幸せを祈念する目的を以ってこの宝篋印塔を建立した次第であります。
 昭和五十五年五月一日
   建立委員長
    賀陽邦壽



出典・脚注
  1. 令和3年5月27日閲覧 奈良県観光公式サイト なら旅ネット 黒木御所跡
  2. 令和3年5月27日閲覧 ウィキペディア 十津川大水害

改訂記録
  • 令和06.03.04 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)


inserted by FC2 system