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玉置神社(奈良県吉野郡十津川村玉置川)

参拝日 令和2年11月21日(土)
作成日 令和3年6月6日(日)
改訂日 令和6年3月4日(月)
 
よみ  たまき じんじゃ  
所在地  吉野郡十津川村玉置川 1
  (33度55分29.97秒 135度49分52.62秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  Wikipedia:玉置神社
 当社HP
祭神  国常立尊(くにのとこたちのみこと)
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
 伊弉冊尊(いざなみのみこと)
 天照大神(あまてらすおおみかみ)
 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと・神武天皇)
由緒  元 郷社 

wikipwdiaより
・『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮(和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝へられるものの、創建年代は不詳。
・古来より十津川郷の鎮守であった。
・山容を神奈備として崇拝することが起源であったと考へられてゐる。
・玉置山を熊野三山の奥の院と称する(は江戸時代中期頃に初見)。
・『紀伊続風土記』は熊野本宮に玉置神社の遥拝所があったと伝へる。
・大峯奥駈道の一部となり、室町時代には入峯の宿となった
・享保12年(1727年)からは聖護院門跡が玉置山を支配下におさめた。
・別当寺院の高牟婁院が建立され繁栄をみたが十津川郷とは疎遠になった。
・明治の神仏分離に際して廃仏毀釈された。
・令和二年から同十年を事業期間として令和の大改修を計画してゐる。

境内社
・玉石神社 大巳貴命(おおなむぢのみこと)
・三柱神社 倉稲魂神(うがのみたまのかみ)、天御柱神(あめのみはしらのかみ)、国御柱神(くにのみはしらのかみ)。別名「稲荷社」で、稲荷信仰が盛んになる前から地主神(じぬしのかみ)としてお祀りをされてきた。例祭は3月の初午の日。
・若宮社 本社に向って左
・神武社 上の更に左
・白山社
・水神社 玉石神社と宝冠の杜への分岐点直前にある
・山之神 (磐座、枕状溶岩露頭近く(写真2のすぐ左)、社殿無し)
雑記  十津川村役場から南東ないし南南東へ7.9km(道程16km)、近くに鉄道駅は無く、紀勢本線新宮駅から北西へ27km(道程60km)、和歌山線五條駅から南へ49km(道程80km)の所にある。玉置山は標高1076.8m、社殿は968m程の所にある。

社務所内の襖絵を拝観した

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 鳥居と社号標
写真1 拡大 (1280×960)

鳥居と社号標

社号標には「世界遺産 熊野奥宮 玉置神社」とある。一部、草書に近い書体で余所においてあったら読めなかったかも知れない。

この先で道が二つに分れてゐて、右側の鳥居がある方の道を進んだ。本殿の下の方へつながってゐる。(写真13参照)

写真2 参道途中の枕状溶岩
写真2 拡大 (1280×960)

参道途中の枕状溶岩

掲示があり、次の様に記されてゐる。
県指定
天然記念物 玉置山の枕状溶岩堆積地
平成九年三月二一日指定

 玉置山頂上付近にある枕状溶岩は、海底火山の噴火により噴出した玄武岩質の溶岩が水中に流れ出し、冷えて固まったものである。産出地帯は不規則な楕円体状または曲がった丸太状をなした岩石が積み重なったもので、一つ一つの内部構造は中心から放射状に割れ目がある。岩石の形状が枕に似ていることから枕状溶岩と呼ばれている。
 この地域の枕状溶岩は、長い年月の間に地殻変動などで地表に現れたもので、標高一、○○○mの山頂付近に積み重なって存在していることは、日本列島や紀伊半島の形成を考えるうえで貴重な資料である。
 この地域はブナ林が発達する環境条件であるが、枕状溶岩が堆積する地形・地質学的に特異な地域を反映して、ミズナラなどの落葉広葉樹を主体とする中にヒノキ、モミ、ツガなどの針葉樹、ヤマグルマ、ホンシャクナゲなどの常緑広葉樹を交え特異な群落が発達しており、植物学上からも極めて学術的価値が高い。
 平成十年三月
奈良県教育委員会


写真3 参道
写真3 拡大 (1280×960)

参道

中央に見える柵で囲はれた木は、神代杉。奈良県教育委員会による掲示には、平成九年の測定で胸高幹囲8.3m、高さ20mと云ふ。

写真4 鳥居と手水舎
写真4 拡大 (1280×960)

鳥居と手水舎

写真5 鳥居と本社社殿
写真5 拡大 (1280×960)

鳥居と本社社殿

写真6 本社社殿側面
写真6 拡大 (1280×960)

本社社殿側面

写真7 玉石神社
写真7 拡大 (1280×960)

玉石神社

写真8 柵の中
写真8 拡大 (1280×960)

柵の中

社殿は無く、玉石(枕状溶岩)を祀ってゐる。

写真9 玉石神社からの眺め
写真9 拡大 (1280×960)

玉石神社から下方の眺め

この急斜面を登ってきた。身長分の高さがあるから、なおさら急に見える。

写真10 大杉
写真10 拡大 (1280×960)

大杉

歩いてゐる人と比べると、大きさが判る。平成九年の測定では胸高幹囲8.7m、高さ40m(奈良県教育委員会)。

写真11 出雲大社玉置協会社殿
写真11 拡大 (1280×960)

出雲大社玉置協会社殿

明治初期に廃仏毀釈で玉置神社を別当の高牟婁院(たかむろいん)から取戻し、奉仕を社家に委ねたと云ふ。江戸時代には寺僧たちの支配のため、自分たちの鎮守でありながらお祭りも出来なかったと云ふ。廃仏毀釈では全村の寺が廃寺となり、神葬祭を行ふ大社教に改宗したと云ふ。

写真12 社務所及び台所一棟
写真12 拡大 (1280×960)

社務所及び台所一棟

昭和63年に重要文化財に指定されてゐる。元高牟婁院の所員及び庫裏で、中を拝観したが襖絵や欄間は素晴しいものの、古い建物で冬は住めるのかと思つた。隙間が見える等といふ事では無く断熱材の入らない壁では、辛さうという事。延享二年(1745)の棟札があるといふ。

写真13
写真13 拡大 (1280×960)

境内に設置の案内図

御朱印
御朱印 拡大 (649×960)


出典・脚注
  1.  ─

改訂記録
  • 令和06.03.04 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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