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作成日 平成25年06月18日 |
よみ | びんごごこくじんじゃ | |||
福山市丸之内1-9-1 (北緯34度29分33.8秒 東経133度21分36.5秒)
国土地理院ウオッちず いつもNAVI | ||||
HP | wikipedia | |||
祭神 | 備後国出身の護国の英霊 大彦命・武沼河別命・豊幹別命および阿部正弘をはじめとする歴代備後福山藩主 | |||
由緒 | 阿部神社の参道の南側社頭にある神社が建てたと思はれる掲示板には次のやうにある。
福山観光協会による少々古びた掲示が近くにあり、それには、
wikipediaによると、護国神社は「明治元年、福山藩主・阿部正桓が、石見益田の役と箱館戦争での戦死者の霊を祀るために、旧深津郡吉津村に招魂社を 創立したのに始まる。明治26年に福山公園(現在の福山城)の本丸人質櫓跡に遷座し、明治34年に官祭福山招魂社に改称した。昭和14年(1939年) に内務大臣の指定を受けて福山護國神社と改称した。」紀元2600年を期に新たな境内地に造営工事されたが、昭和二十年8月8日の福山空襲で焼失した。 といふ歴史がある。 | |||
参拝日 | 平成24年7月3日(火) | |||
雑記 | 護国神社は、愛媛県護国神社について二社目だった。福山駅方から福山城の東側を歩いてきたので南側から境内に入った。
普通の神社にしか見えず、様子が違ふなと思ひながら一旦戻り、西へ歩くと右手にいくつもの慰霊碑がみへる。碑文を読むと胸に迫るものがある。
写真を何枚も撮ったが、なんとしたことか、電池が残り少なくなった。もう一社行きたかったので、時間(17時を過ぎてゐた)もないので 気持を改めて、社を後にした。 当社へは、福山駅から北に約200m。 |
平成24年7月3日撮影 | 平成24年7月3日撮影 |
平成24年7月3日撮影 | 平成24年7月3日撮影 |
平成24年7月3日撮影 |
いくつもの碑があったが、撮影してきた写真から読取れた碑文を記す。 |
レイテ、ミンダナオ島戦没者 慰霊碑
顧みるに、わが歩兵第四十一聯隊は、過ぐる大東亜戦争に於て各地を転戦、昭和十八年十月、東部ニューギニアより平壌に復員の後、 新たに第三十師団の第一線部隊として編成され、十九年五月聯隊長炭谷鷹義大差以下三千二十六名は比島に出動ミンダナオ島の防衛に 任ず。同年十月、米軍レイテ島に上陸するや、第一大隊及び第二大隊を基幹とする聯隊主力は急遽出撃。壮絶なる戦闘を展開するも、 敵の膨大なる物量にわが前線もついに力及ばず、二十年七月レイテ島カンギポットに於て聯隊長以下全員軍旗と共に祖国に殉じ、また、 第三大隊はミンダナオ島ワロエ付近にて優勢なる米軍と指呼の間に対峙、約半数の兵員を失いてなお激戦中八月十五日、終戦を迎え、 聯隊は明治二十九年十一月創設以来五十年に亙る波乱と激動の歴史を閉ず。 この間、瘴癘蔓延の密林に拠り、悪戦苦闘の末、祖国の勝利と平和を念じ、故郷の骨肉の上に万斛の思いを残しつつ比島の山野に 散華せる一千四百有余名の戦友を想うとき、万感胸に迫り断腸の念に耐えず、ここに我ら生還者及び有志相集い、その昔春秋に富む 若き身を国難に○ て南海の異境に戦い、一命を祖国の尊き礎として捧げし戦友の御霊を招来し、とこしえに鎮まりまさんことを祈念 せんがため碑を聯隊発祥の地、福山に建立す 昭和五十八年四月 歩兵第四十一聯隊比島戦友会
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硫黄島戦没将兵 慰霊碑
硫黄島は東京南方千二百粁の地点にあり南北八粁東西四粁の火山島である 昭和二十年二月十六日米艦船六百○又海兵三ケ師団超重爆撃戦隊三ケ連隊艦載機千六百機戦車六百輌を以つてする猛攻撃に対し我が軍 二万一千は打って一丸となり勇奮敢斗鬼神の如き死斗を以って米軍を殺傷すること二万五千の損害を與へたり 而し戦闘は地獄の様相で緑の島のすべてのものは余すことなく爆砕され瓦礫の原には身を隠す陰もなく飢を満す草木もなく渇をいやす 水もなく優勢なる米軍と昼夜の別なき戦いに矢尽き刀折れ遂に三月十七日玉砕の運命を辿りたり 国家の危急に身を捧げ傷つき仆れても看護の手もなく暗い熱い壕の中で求むるものの何ものも与へられずして死に至った数多くの 将兵の遺骨今も尚地下壕の中に惨嘆たる姿で内地からの迎へを待ち焦がれている有様は誠に慟哭の極みなり 余りにも変り果てた 地形は完全収骨はとても不可能であり仍ってここに報はれなかった硫黄島周辺を含めた戦没将兵の武勲を讃へ後世にその戦史を伝へて 永遠の供養にと硫黄島戦没遺族と生還者相計りここに慰霊碑を建立せり 昭和四十八年九月十七日 |
拓魂碑
満州開拓の悲願に燃えて勇躍決起した満州開拓青年義勇隊は北満の広野にて極寒極暑と闘いながら敢然と開拓の鍬を振う 然るに壮国半ばにして或る者は病魔に冒され或る者は戦場に赴き終には敗戦という歴史的大惨事に遭い君の悲願は一瞬にして壊滅した 拓友の多くは痛恨望郷の思いを込めて異国の丘に骨を埋めた 嗚呼痛ましい哉 九死に一生を得て帰還した拓友相計りここに碑を建て君の御霊を迎えて永遠に祀る 国策に殉じた君の開拓魂は平和国家日本の礎石として永劫に光を放つであろう 昭和四十八年三月 元満州開拓青年義勇隊備後地区生還者一同
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陸軍少年飛行兵戦没者慰霊之碑
昭和四十七年四月 広島少飛会 備後地区会員 備後地区遺族 碑文 昭和九年二月に誕生した陸軍少年飛行兵は同二十年八月の終戦に至る間航空部隊の中核として約三万人が巣立ち 備後地区からも多くの少年兵がこれに参加した顧みれば日華事変太平洋戦争で祖国の安泰と同胞の繁栄を祈りつつ大空の決戦場で 花と散った多くの陸軍少年飛行兵の至純な姿を忘れることができない今は還らぬ郷土出身の友を偲び霊を慰めその栄誉と武勲をたたえ ながく後世に伝えるとともに世界永遠の平和と人類福祉を祈念してここに慰霊碑を建立する |
マリアナ慰霊碑
碑文
戦後三十三年祖国は平和に蘇ったしかし最大の激戦地マリアナ諸島には多くの遺骨が残されている一日も早くご奉還するため全力を 尽すことを誓うとともにマリアナ旧南洋諸島中部太平洋に散られた陸海空全ての戦争犠牲者のご冥福と再び戦争のない世界恒久平和 を祈念してこの碑を建つ 1978・7・18 広島県マリアナ会
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