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福山八幡宮(広島県福山市北吉津町)

作成日 平成25年06月18日
よみ  ふくやまはちまんぐう
所在地  福山市北吉津町1-2-16 (北緯34度29分41.6秒  東経133度21分35.3秒)
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HP  福山八幡宮 HP  Wikipedia
祭神  応神天皇(おうじんてんのう)
 比売大神(ひめおおかみ(宗像三女神))
 神功皇后(じんぐうこうごう)
由緒  以下にwikipediaの記述を要約した。

 天和三年(1683)、二つの八幡宮を現在地に移した。中央に聡敏神社、両隣に同じ様式・規模で八幡宮を配し、両八幡宮と呼ばれた。
 昭和四十四年(1969)福山八幡宮と改称した。
 昭和五十九年に聡敏神社が西御宮後方に移され、中央には中央拝殿が建てられた。
    八幡宮の由緒は、 
  • 東の宮 かつて惣堂八幡宮と呼ばれてゐた。福山城建設地の麓にあったが、築城の時に職人達により現在の延広町の地に移された。寛文二年(1662)の水野家 家中騒動のため、惣堂は騒動につながるとされ延広八幡宮と改称された。
  • 西の宮 天文年間に(1532-1555)に豪族の杉原盛重氏が常興寺山(福山城建設地)に造営されたとされる。築城に際して現在の野上町に移され 野上八幡宮と称された。
聰敏神社には由緒を記した碑があった。
聰敏神社
         御祭神 水野勝成公
         例祭日 四月二十五日
備後国初代領主、水野勝成公を祀る神社である。
勝成公は、徳川家康の従兄弟で、大坂夏の陣に初戦を飾り、その功により三河国刈谷より大和郡山を経て、西国鎮衛として元和六年この 福山十万石の領主として赴任した。城下町造成のため困難を克服して、南に東に干拓造成し、芦田川の水を城下町に飲料水として導入した。 又、領国経済の流通拠点とすべく、商人群を城の大手前に移転せしめ、特産物の藺草、畳表の商いを奨励する等、数多くの善政を引く。 慶安四年死去、霊社は場内に祀られていたが、享保五年この地に移される。勝成公は聰明、俊敏と称えられ、当社が聰敏神社と呼ばれる 所以である。
参拝日  平成24年7月3日(火)
雑記  福山駅の北北西600mのところにある。
 東御宮の門をくぐると左手は広い駐車場になってゐる。すぐ左には社務所が見へたが既にしまってゐる。着いたのは17時30分を過ぎてゐた。 暗くなり始めてきてゐる。
 まっすぐ歩いて赤い両部鳥居をくぐり階段を上ると社殿が見へてくる。登り切ると……。社殿がいくつも見へる。左へ歩いて行くと大きな拝殿と 思はれる建物が在り、その先には檜皮葺の屋根を持った本殿と拝殿とがある。予備知識を持ってゐなかったし、由緒の掲示も見当らなかったことで、 二社があるとは判らなかった。とにかく一周しようと、後方にまはり境内社がいくつもあるのを写してゐる内、カメラの電池が赤く表示され いよいよ電池が少なくなった。
 正面に回り、とにかく写真を撮り、中央で参拝してきた。


平成24年7月3日撮影 西御宮

平成24年7月3日撮影 東御宮

平成24年7月3日撮影 合祭殿(中央拝殿)、 左側:西御宮、右側:東御宮 (直線上に並んでゐるが、レンズの性質で中央が大きく写ってゐる)

平成24年7月3日撮影 西御宮

平成24年7月3日撮影 東御宮

平成24年7月3日撮影 東御宮(後方から撮影)

平成24年7月3日撮影 境内社 聡敏神社


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