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作成日 平成21年9月20日 |
追記日 ──────── |
よみ | いで じんじゃ |
松山市北立花町2-4(北緯33度50分3秒、東経132度46分19秒) | |
HP | ─ |
祭神 | 大山祇神(おおやまづみのかみ)
木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ) 橘諸兄(たちばなのもろえ、橘氏の祖で、正一位の位階を生前叙位する、井手左大臣ともよばれる、天平宝字元年(757年)没) 橘嘉智子(たちばなのかちこ、檀林皇后(だんりんこうごう)、橘清友の子で嵯峨天皇の皇后) 橘清友(たちばなのきよとも、橘諸兄の孫、延暦8年(789年)没) |
由緒 | 参拝時に頂いたしおりによると、「由緒沿革 五座のうち、大山祇神、木花開耶姫神は往古よりの御鎮座である。
後に、清友公が国司となり、橘郷に別業を構え、当社内殿に諸兄公の神霊を奉斎して井手大明神と称え崇敬祈願した。(中略)
その後橘一族は清友公、橘嘉智子姫の神霊を併せ祀って五社大明神と称した。当地方の氏神として崇敬されていたが慶安年間に現在地に奉遷
した。(後略)」
境内社に天満宮、橘稲荷神社、橘夷子神社がある。 河野通有石像(平成7年建立)、筆塚、針塚がある。境内は広さの割に建物が多く社叢といふほどの樹木はないが、日本橘の大きな木があり松山市の天然記念物となってゐる。 |
参拝日 | 平成20年12月24日(水) |
雑記 | この文書を書くに当たって自分なりに話が関連づけられるやう調べてゐるが、なかなかむづいかしい。
「井手」の名称は橘諸兄が京都の井手の地名にちなんで井手左大臣とよばれたからと納得。 河野通有は、元寇に際して活躍した河野氏中興の祖。博多の浜では石塁を背にして布陣し、この不退転の意気込みを「河野の後築地(うしろついじ)」 と呼び九州諸州将は一目置いたといふ伊予水軍の将。椿神社にある勝軍八幡神社や石手にある大山積神社との関連の方が強さうだが、 「平和の象徴と史跡顕彰の一助にとその石像を建立する計画が故丹辺元氏(河野家末裔・元井手神社責任役員)、故横田政春氏(先代宮司)外数君の方々で進められ、 建立場所の選定等協議の結果、井手神社に祀られる大山積神、木花開耶姫命は河野家とは御縁の深い神々であり当社玉垣の内がふさわしいのではと結論し、 心を新たにして多数の方々にご賛助を仰ぎここに建立の運びとなった。」といふ。先代宮司とあるが、参拝時点からは先々代かもしれない。 訪れたのは、先に椿神社へ行ってをり、昼過ぎになった。社務所(住宅を兼用してゐると思はれる)で御朱印をお願ひしたが、キャリーバックを持ってゐていかにも旅行者。 神奈川県から来てゐるとのことで昼食時の非礼を勘弁してもらへただらうか。 |
平成20年12月24日撮影 | 平成20年12月24日撮影 |
平成20年12月24日撮影 天満宮 |