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湯神社(愛媛県松山市湯之町)

作成日 平成25年5月27日
よみ  ゆじんじゃ
所在地  松山市道後湯之町4番10号 (北緯33度51分4.4秒  東経132度47分13.3秒)
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HP  湯神社  wikipedia
祭神  主祭神 大己貴命(大国主命)
     少彦名命
 配神 相殿(出雲崗神社)素盞鳴命
             稲田姫命
由緒 式内社 県社 
景行天皇(12代)が当地に行幸した際、道後温泉の守護神として、鷺谷の大禅寺の前に創建されたと伝へられる。 大永年間(1521〜1528)、地震で温泉が埋没し、湯神社の社殿も大破した。そのため、湯神社は出雲崗神社に合祀された。 現在は出雲崗神社が相殿となってゐる。
 境内には次の掲示がある。
湯神社
 祭神は、道後温泉を開いた大己貴命と少彦名命の二神である。
 当社は、延喜式内社で、社伝によれば、景行天皇が皇后八坂入姫と共に行幸の際に、鷺谷の大禅寺の前に創建したと 伝えられている。その後舒明天皇行幸に際し勅命により社殿を新築した。
 その後、国司、領主の尊崇を受け、神田や幣帛の奉献があったと伝えられている。
 大永七(1527)年の地震で温泉が埋没した際に、須佐之男命と稲田姫命を祀る延喜式内社出雲崗神社境内(現在の 冠山)に移され、いつしか合祀して四社大明神と呼ばれるようになったという。
 湯神社では、地震などで温泉が止るたびに、神楽を奉納して祈願してきた。宝永四(年1704)年の地震では藩主の名で 「湯祈祷」が行われ、以後中断しつつも今日まで続けられており、正月の初子の神事とともに世に知られている。
松山市教育委員会

境内社 中嶋神社
 境内の石碑には次のやうにある。
中 嶋 神 社
御祭神 田道間守命
創立   当神社は四国四県の製菓業者に依って建設奉賛会を組織し 昭和三十二年三月但馬国出石群神美村三宅なる 延喜式内社中嶋神社の御分霊を迎え 菓祖中嶋神社四国分社として創祀せり
神徳  田道間守命は往古但馬国出石郡阿美郷三宅に在り付近の開拓或は農蚕の業を奨励し給いしが人皇十一代垂仁天皇 の時勅命にて非時香菓(今の橘)を求むべく当世国に到り十年の歳月を費やし香菓を携えて還り給いしに垂仁天皇既に崩し給い 悲嘆の極み陵前に号哭して復命す曰臣命を奉じて万里の波涛を越えて絶域に往き俗人の到らざる処を探り十年の星霜を経没し 生還を期せざりしも幸に経過の威霊によって帰り来れば天皇既に崩す
 何の楽かあらんと悶絶し陵前にて薨す 景行天皇は命の忠を哀れみ垂仁天皇の陵側へ葬らしめ給いき
崇敬  製菓の祖神として菓業者の崇敬厚し
 我国菓業未開の頃果実をそのまま用い或は果汁を採りて製菓上の必要品とせり柑橘の祖神として我国柑橘業者の崇敬あり
 橘は我国の蜜柑の原種である
 本社の中嶋神社は、兵庫県豊岡市三宅にある。
 wikipediaによると、『国司文書[4]』によれば、推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、 祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように 浮かんでいるからという。
参拝日  平成24年7月1(日)
雑記  伊予鉄道道後温泉駅から伊佐爾波神社への参道を上って行く途中、左手にある。道後温泉本館 からは近道をすれば50メートルもなさそう。
 創建時の位置は判らないらしい。湯神社から北へ200メートルくらいの処に道後鷺谷町という地名が在りホテル・旅館街がある。
 大永年間の地震はどのやうな地震かはわからない。松山地方気象台のwebには、慶安二年(1649)以前の地震情報は載ってゐなかった。
 せっかくだから温泉に入りたいものだが、塩素入では風呂の湯と変らない。ホテルに戻ってから出直すなど、面倒が先に立つ。


平成24年7月1日撮影

平成24年7月1日撮影

平成24年7月1日撮影

平成24年7月1日撮影 中嶋神社社殿

平成24年7月1日撮影  手前(右):中嶋神社 左:湯神社


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