よみ
| すがわらじんじゃ
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参拝日
| 平成26年9月19日(金)
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所在地
| 小田原市国府津1752 (北緯35.28239 東経139.207574)
地図:地理院地図
いつもNAVI
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HP
| 神奈川県神社庁 神社詳細 菅原神社
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祭神
| 菅原道真 ( すがわらみちざね )
天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )
大山津見命 ( おおやまつみのみこと )
木花咲耶姫命 ( このはなさくやひめのみこと )
誉田別命 ( ほむだわけのみこと )
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由緒
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社頭(鳥居前)の案内板には次のやうにある。(縦書)
菅原神社
一、祭神菅原道真公を祀る
(略)
二、神社縁起
学問の神菅原道真公を祭神と仰ぐ『当菅原神社は正暦五年(西紀994年)六月晦日黄昏時納涼せんと海岸に里人が集うと・・・奇なる木船が汀に
漂い来たりて束帯せる一貴人が錦の袖にて招き給う。里人は之を招じて麦飯に麦粉をかけて饗す・・・其の夜里人に夢枕に貴人現れて告げて曰く、
「京の菅神を崇敬せば幸多からん」と・・・。
目覚むれば貴人の姿はなく菅公の肖像一?(現存の神像)残れりよって之を御神体として神社を創建せり』
神社は現在地であり昔時は諏訪の森と称し、諏訪社(西紀750年頃)があって之と合祀した。それで年々六月晦日を祭典の日と定め麦飯麦粉をかけて
必ず之を神前に奉供した。又神輿は、相模湾岸に渡御し小総の里(後の古宇津宿現在の国府津)海岸で神事を行った。爾来思想文化の中心として
もてはやされ天神信仰の源泉となり庶民の教養を高めた。祭典日に関しては明治初年の改暦と共に七月晦日に改められ更に各天満宮の申合で
二十五日を祭日と決定した。因みに道真公は誕生日、右大臣就行日、太宰府赴任日、九州に於て薨去の日の何れも二十五日なので祭神の神霊供養のため
月は異っても二十五日を祭典と決定。之に従い当神社では明治三十一年から毎年四月二十五日を祭典と定め現在に至った。なお、当神社の神輿は
総重量2300キロ(約六百貫)ありその優美さと佳麗なることは関東随一と称されて居る。
古来当神社別当は安楽院であったが明治維新の神仏分離の法令により専属の神官が奉仕することになった。明治三十五年火災により社殿を
全焼し明治四十二年再建復興され、又同年八月官命に依り、諏訪社及び国府津全域に散在奉仕していた各社を一同に合祀した。
諏訪社(祭神建御名形神) 浅間社(祭神木花咲耶姫命)
神明社(祭神天照皇大神) 稲荷社(祭神倉稲魂命)
日枝社(祭神大山咋命)
昭和五十二年九月
菅原神社宮司 近藤金之助
菅原神社氏子総代会々長 瀬戸喜代吉
元小田原市史○会副会長 寄稿 落合信一
郷土史研究家 浄書 鈴木○弘
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この文章は大草紙、相模風土記、国府津村誌等から集録創作したものである。又これを書いた板は当神社の境内に有った老楠で明治三十五年の
火災に遭ったため伐採したもので、その当時において既に壱千年余の星霜を知る銘木であった。
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境内にある案内板。(横書)
菅原神社
国府津の天神さんで知られる菅原神社は、正暦5年(994)に創建されたと伝えられています。祭神は、菅原道真公(845〜903)、
天照大神ほか七神が合祀されています。
境内の「曽我の隠れ石」と呼ばれる大きな石には、「曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討つためにこの石に隠れていたが、
警護が厳しく涙を呑んでそのまま見送った」という伝承が残っています。
水神の傍らにそびえる御神木のクムノキは、江戸時代の記録にも見える老木で、小田原市天然記念物に指定されています。
その他境内には、道真公が詠んだ「東風吹かば、匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春なわすれそ」を記した石碑をはじめ、
様々な石像物があります。また、「撫で牛」は道真の神使とされており、病気治癒に効くとされています。更に、「とおりゃんせ」発祥の地の
石碑も建立されています。
一月に初天神、四月に例大祭、十二月に納め天神が行われるとともに、学業成就や試験合格を願う人々など多くの参拝客で賑わいます。
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雑記
| 東海道本線国府津駅から西北西へ0.6kmの所にある。
昭和61年に宮司さんが奉納された「神社誌」と題した石碑には、祭神として「国府津比古 比女命」の名がある。
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