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新篠津神社 (北海道〈石狩〉新篠津村市街)

参拝日 平成30年11月3日(金)
作成日 令和2年3月29日(日)
追記日 令和6年3月25日(月)
よみ  しんしのつ じんじゃ  
所在地 〈石狩管内〉新篠津村第四十七線北13番地 (43度13分34.44秒 141度39分2.82秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 新篠津神社
祭 神  天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
 大国主大神 (おおくにぬしのおおかみ)
 天香具山命 (あめのかぐやまのみこと)
由 緒  旧 村社
 北海道神社庁誌にはつぎの様に載ってゐる(1)
由緒 明治二十九年移住者相計り三柱の神を祀る。明治四十四年六月神社の創立を出願同年七月許可を得、無格社に列せられ、大正十四年一月二十一日村社となり、現在に至る。

 当社に合祀された平安神社について、新篠津村誌にはつぎのやうに載ってゐる(2)
新篠津村誌(昭和六、一0、新篠津尋高小刊行)によれば創立が明治二十七年九月十五日、村長名で支庁あて調査報告書(大正九、六、二九)によればこの神社は明治二十九年一月十日の創立と記されている。この地区は京都の人で丸油という屋号の呉服商が農場を開いたところで、初め丸油農場といったが、のちに平安農場と改称した。神社の所在は四十四線北十九番地で、祭神は桓武天皇(人皇五十代)、例大祭日は毎年九月十五日であったが、昭和三十一年九月十六日氏子の総意により祭神を新篠津神社に合祀し平安神社を廃社した。
雑 記  新篠津村役場の北東100m余のところにある。札沼線北海道医療大学駅から東へ14km、岩見沢駅から西北西へ17kmのところにある。
 明治29年に篠津村(現 江別市)から分村して新篠津村となった。当社のある市街地を除いて全部が水田と思へるほど、水田が広がってゐる。尤も、米作の普及は戦後の事らしい。(当村HPの「しんしのつ村の歴史」をみても米作の事は書かれてゐない。)

石像物は、写真の説明のほか、次の物があった。
  • 忠魂碑  陸軍歩兵大佐岡欽一謹書 台座には「大正七年十一月建之」とある。
  • 護国之礎  北海道知事 町村金五書、碑背には合祀新篠津村戦没者名が陸軍・海軍に分け七十九の氏名が刻まれてゐる。
  • 獣魂碑  題字の他「新篠津村農協めん羊生産組合」、背面に「昭和59年9月建立 平成8年10月再建」とある。
 9月の台風21号の被害だらう、根の浮いた切株がいくつかあった。

 今回の旅行は二泊三日で、本日は二日目。天気には恵まれてゐる。錦山天満宮で忠霊塔を発見し、江別神社・新篠津神社を参拝し、主目的はこれで達成できた。あとは、周辺の諸社を参拝する計画。
 当社の参拝を終へたのは13時少し前。昼食は市街のコンビニで暖かいおにぎりを購入し頬張ったから腹も満たされてゐる。10分で昼食を済ませても、計画した通りにはゆかない。もともと昼食時間は取ってゐないといふ強行軍なので、時間短縮の要素が無い。仕方なく、午前中に二社をパスしたのに、今は20分ほどの遅れとなってゐる。今日は、あと六社を巡る計画だが、はたしてだうなるやら。ともかく、次の、道程13.0kmの礪波神社(栗沢町)へ向った。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  社号標は、「昭和十二年九月建之 官幣大社札幌神社禰宜村井昇敬書」とある。札幌神社は現在の北海道神宮。


写真2




写真3  狛犬は「大正十年四月建之」


写真4


写真5  忠魂碑と護国之礎




写真6  「合祀記念 平安神社氏子一同 昭和□十一年九月」とある


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.262
  2. 『新篠津村史』昭和五十年九月一日発行 新篠津村史編さん委員会 p.682

改訂記録
  • 令和06.03.25 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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