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川上神社 (北海道〈釧路〉標茶町)

参拝日 令和4年6月12日(日)
作成日 令和5年10月14日(土)
よみ  令和4年6月12日(日)
概要  上川神社は、北海道釧路総合振興局管内標茶町に鎮座する。明治三十一年に公認され、昭和十年には村社に列格された。  
所在地 〈釧路管内〉川上郡 標茶町(しべちゃちょう)川上7-1
  北緯 43度18分05.12秒
  東経144度35分54.54秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 川上神社
祭神  大國魂神(おおくにたまのかみ)
 大己貴神(おおなむちのかみ)
 少彦名神(すくなひこなのかみ)
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 豊受大神(とようけのおおかみ)
由緒  旧社格 村社

 北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載ってゐる。(1)
由緒 当初、標茶には佐野孫右衛門の漁場の番屋があるだけであったが、明治十八年九月川上郡熊牛村に釧路集治監が設置され、また安田礦業所経営に関わる跡佐登硫黄山より原礦運搬のため鉄道が敷設され(2)、礦物や旅客貨物運送を開始するにあたり人口が増加し一大市街を形成するに至った。 崇敬する神社が無かったため明治二十一年八月地元住民等が協議の末神社創立を決定、社を建立したことに始まる。 明治二十四年、総代の田島精兵衛が当時の官幣小社札幌神社(3)より御分霊を戴き社殿を造営して奉斎、毎年八月十五日を大祭日と定めて川上郡の総鎮守とした。 明治三十一年に無格社、昭和十年には社殿を改築し同年十二月村社に列せられ、翌年二月には神饌幣帛供進神社に指定される。 昭和二十七年、四年前から元軍馬補充部根室支部内に仮遷座されていた七報神社の天照大御神と豊受大神を合祀、同年相馬神社が境内社となった。 更に昭和三十一年には磯分内神社が境内社となっている。
境内外摂末社 相馬神社 天之御中主神 保食神  磯分内神社 天照大御神
雑記  最寄駅は釧網本線標茶駅で東南東へ0.9kmの所にある。 
 町役場は、北北東へ0.3kmの所にある。

 当社の前に訪れた弟子屈神社では雨だったが、ここ、南南東へ23km離れた標茶(川上神社)では、幸ひ曇り空だった。境内は、除草を兼ねたのか土がならされてゐたが、ぬかるむことはなかった。

 由緒に、「昭和三十一年には磯分内神社が境内社となっている」としてゐるが、磯分内(いそぶんない)市街には磯分内神社がある。想像でしかないが、両者が同じ神社とすると一旦は合祀したものの磯分内から標茶市街は遠い(9.6km)ことから再び磯分内で祀るやうになったのだらうか。それとも、同名の別社なのだらうか。

 町内に、オソツベツ、あるいはオソベツと云ふ地がある。川の名にもある。この地名を知ったのはOSO18(おそ じゅうはち)と呼ばれた乳牛を襲ふ熊の名による。令和元年7月、オソツベツで最初に被害が発生し、前足の足跡の大きさ(幅)が18cmあると云ふことで付けられた名だ。 66頭を襲ひ、32頭を殺した。それが、今年令和5年7月30日、抵抗もなくハンターに仕留められた。酪農家をはじめ、関係者は安堵したことだらう。
 羆の被害で有名なのは、吉村昭の『熊嵐』のモデルとなった三毛別事件。人が喰はれると云ふ、衝撃。
 今年の6月には古潭別神社・力昼稲荷神社参拝と近くへ行ったし、事前の調べで事件復元地があるのも知った。然し、1時間の時間を惜しんで立寄らなかった。事件のあった大正四年とはすっかり様子は変ってゐるだらう、などと理由を付けて。


【標茶町】について
  • 人口等  人口:7057人(令和5年8月末、昭和33年の18833人がピーク)
         面積:1099km2 (厚木市の12倍)
  • 産業   酪農
  • 沿革(4)
    • 先史時代  遺跡が200箇所以上確認されてゐる
    • 江戸末期  松浦武四郎等の記録にアイヌ集落の記録
    • 明治9年  硫黄山で硫黄の採掘始る(馬車で標茶へ、標茶から釧路へ船で運搬)(内陸部開拓の始り)
    • 明治18年  戸長役場設置、釧路集治監開庁。(場所は塘路(標茶町南部)。人口増の要因)
    • 明治20年  安田善次郎が硫黄開発で、硫黄山(跡佐登)から標茶への鉄道敷設。標茶には精錬所設置。
    • 明治29年  安田氏の硫黄採掘事業休止、鉄道休業。(後継が昭和38年まで小規模採掘実施)
    • 明治36年  弟子屈・屈斜路の両村が分村
    • 明治41年  軍馬補充部設置(人口増の要因)
    • 大正12年  熊牛村となる
    • 昭和2年  釧網本線標茶駅開業(昭和6年に釧網線全通)
    • 昭和4年  標茶村に改称
    • 昭和12年  標津線全通(117km、平成元年廃止)
    • 昭和25年  町制施行
    • 昭和38年  人口のピーク(18833人、住民基本台帳より)
  • 神社   町内に、地理院地図に神社記号のある神社は、当社を除いて18社ある。(5)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 社号標は、「鎮守 川上神社」とある。木製。

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿 正面

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿 斜め前

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿 側面

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿前からの眺め

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 手水舎
 写真の右下は、手水鉢の拡大。土台は亀。明治26年七月奉納

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 境内社 二輪神社
 賽銭箱の下はバイクの燃料タンク

写真9 写真9 拡大 (1280×960)
 境内社か?
 建物内は見てこなかった。

写真10 写真10 拡大 (1280×960)
 忠魂碑
 書は「陸軍中将國司伍七」(6)
 台石に「大正十三年一月二十六日 御成婚記念 熊牛村分會建之」とある


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.711-712
  2. 令和5年10月13日閲覧  「跡佐登」は弟子屈町川湯に近い硫黄山付近にある地名で、読みは、あとさのぼり。硫黄山は噴煙が登ってゐて北側山麓は観光地となってゐる。国土地理院の地図では山の名にアトサヌプリとあり、これでは何の事やら判らないためか括弧書きで硫黄山と記されてゐる。 また、鉄道敷設は、明治20年で跡佐登─標茶間 39kmで硫黄鉱石を標茶へ運搬し精錬した。(弟子屈町webの硫黄山の歴史より)
  3. 平成29年閲覧 当時の官幣小社札幌神社は、後に官幣大社となり、昭和39年に明治天皇が鎮座され北海道神宮と改称した。
     札幌神社の創建は、北海道の開拓と北海道に於ける神社創建の出発点に位置付けられるもので、明治天皇の勅旨により降神されたのが「開拓三神」と称される、大国魂神(おおくにたまのかみ)・大那牟遅神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱。明治2年創祀。(西野神社(札幌市)の神職(当時) 田頭さんのブログ西野神社社務日誌の2009年4月17日の記事より。但し、当該記事は現存してゐない)
    当サイト内北海道神宮
  4. 令和5年10月13日閲覧 ウィキペディアの標茶町及び、標茶町webの標茶町の由来とあゆみ
  5. 令和5年10月13日閲覧
    標茶町内の神社  国土地理院地図に神社記号のある所についてグーグルマップで社名等を調べた結果。神社庁包括下にある川上神社を除く。G:グーグルマップへのリンク

      社名 (地名)  緯度経度   読み・コメント
    • 中虹別神社(虹別原野) 43度29分53.72秒 144度38分51.26秒 にじべつげんや 
    • 上虹別神社(虹別原野) 43度30分05.85秒 144度41分59.52秒 
    • 虹別神社 (虹別市街) 43度27分50.49秒 144度40分25.43秒 
    • 弥栄神社 (上多和)  43度22分47.18秒 144度37分35.41秒 かみたわ 
    • 磯分内神社(磯分内)  43度22分46.90秒 144度32分56.06秒 いそぶんない 
    • 久著呂神社(中久著呂市街地)43度16分58.38秒 144度22分31.36秒 くちょろ 
    • 不詳   (コッタロ) 43度14分9.36秒 144度26分07.28秒 確認出来ず
    • 三吉神社(上沼幌神社)(ヌマオロ原野)43度19分20.81秒 144度24分18.70秒 
    • 沼幌神社(ヌマオロ原野)43度16分53.91秒 144度29分04.88秒 
    • 上御卒別神社(上オソツベツ原野)43度22分09.53秒 144度25分11.33秒 
    • 中御卒別神社(中オソツベツ)43度19分35.58秒 144度28分51.51秒 
    • 下御卒別神社(オソツベツ原野)43度15分35.56秒 144度31分43.54秒 
    • 不詳   (標茶)   43度17分41.06秒 144度33分16.30秒 確認出来ず
    • 上茶安別八幡神社(チャンベツ原野)43度15分50.52秒 144度38分20.29秒 
    • 茅沼神社(シラルトロエトロ)43度12分11.88秒 144度30分20.81秒 
    • 阿歴内神社(阿歴内原野) 43度5分27.61秒 144度34分39.82秒 あれきない 
    • 東阿歴内神社(阿歴内原野)43度4分55.96秒 144度36分54.47秒 
    • 塘路神社(塘路)    43度8分49.55秒 144度30分01.75秒 とうろ 

       茶安別(ちゃんべつ)は、昭和30年までは太田村だった地区。太田村は二分し標茶と厚岸に編入された。

  6. 令和5年10月14日閲覧  大正12年8月から大正15年3月まで第七師団長に親補された。(ウィキペディア 国司伍七より)

改訂記録
  • 令和06.01.22 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)
  •  〃    26 配置再修正

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