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屈斜路神社/和琴神社 (北海道〈釧路〉弟子屈町屈斜路(和琴))

参拝日 令和4年9月30日(金)
作成日 令和5年11月12日(日)
よみ  くっしゃろ / わこと じんじゃ
概要  北海道釧路管内弟子屈町の屈斜路湖の和琴半島に鎮座してゐる。鳥居扁額には「屈斜路神社」とあるが、和琴神社とも呼ばれてゐる模様。  
所在地 〈釧路管内〉弟子屈町屈斜路413-26
  北緯 43度34分52.19秒
  東経144度18分41.74秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
HP等  ─
祭神  不詳
由緒  旧社格 無し(未公認社)

 不詳

 調べた範囲で手がかりになると思へた事を記す。
・北海道神社庁誌(平成11年)
  屈斜路神社と和琴神社の両者が載ってゐる(1)。屈斜路神社は「所在地 弟子屈町字屈斜路」との記載のみ。和琴神社は「所在地 弟子屈町」のほか由緒は「創立年代未詳。戦後和琴国民学校で不要となった奉安殿を譲受け奉遷することとなったが、GHQより校内に神社を置くことが禁じられ、再び半島付近の元の場所に戻ったという経緯がある」と記されてゐる。
・神社の扁額
  鳥居の扁額に「屈斜路神社」とある
・交通規制案内図の表記
  令和5年に設置の和琴半島探勝路通行止の工事案内板地図に和琴神社と表記されてゐた。
・弟子屈町史(昭和24年)
  屈斜路神社は屈斜路コタンに木の神を祀ったとある。和琴神社は、ウランコシの和光神社とポントの湖水神社を和琴半島に和琴神社として合祀したとある。(屈斜路コタンは、当社から南東へ3km(道程6km)、ウランコシは和琴から西北西へ3.0km辺りの所、ポントは南南東へ2.6km辺りの所) 下に町史の該当部分を引用した。
・ブログ さぽろぐ内「弟子屈の奉安殿」(2)
  和琴神社として利用されてゐた元奉安殿は老朽化のため平成21年に取壊された。


 弟子屈町史(昭和24年)(3)にある記述は次の様。(題の後に引用頁を示した。原文は正字・歴史的仮名遣を使用してあるが、正字は現在汎用されてゐる字体に置換へた。)
屈斜路神社 p.176
 木材の恩恵によつて全道でめづらしい立派なコタンだと、コタンを巡る学者達を驚かせる屈斜路コタンの屈斜路神社は、大正六年にここに造材事業の本拠を置いてゐた黒瀧初太郎氏が、部落民と協力して近くの湿地から用材を伐り出し、山の幸を司る社をつくつたのである。コタンにはコタンの神々があるのであるが、当時のコタンは昔の神々に守られるよりも、木材事業の盛衰によつて生活が支へられてゐたので、湖の奥地からトー廻しが川口に到着するとお祭のやうな賑はひであつたといふし、毎年十二月に造材山で行はれる山神祭によつて、この神に対する新しい信仰が芽生えてゐたので、容易にその造営が行はれたものであつたらしい。
義経さんと和琴神社 p.234-235
 大正の初期屈斜路に入植した開拓者によってつくられた、ウランコシの和光神社とポントの湖水神社は、昭和三年になつて両方の人々が相談した結果、和琴半島に和琴神社として合祀することになり、同時に観光客誘致の目的をもつて、和琴半島の先端にあつて昔からコタンの人々にサマイクルカムイ(天地創造神)と云はれて崇拝されてあつた奇岩が、明治の末頃暴風雨の為に湖中に転落して姿を没してしまつた。(悪戯者の和人が「何だこんな石塊が神様なもんか」といつて小便をかけたので、怒つて暴風雨のときに湖に飛込んだと信じてゐる者もある)サマイクルカムイは元来義経ではないのであるが、義経が北海道に渡つて蝦夷に色んな新生活法を教へたといふ伝説から、世の中をつくつた神様なら義経だといふ解釈から、これを和琴の名物にしようといふので、やつと湖底からサマイクルカムイ岩を引上げ、それを磯舟二艘にぶらさげて和琴温泉にまで運び、温泉の近くの砂地のところへ据えて義経岩と云ひ、その傍らに小石を並べて義経の弁当だといつて飾立てたが、これは単なる名物の為のものであつて、コタンに人達はサマイクルカムイの魂はモシリバ(島の上の神々の住ふところ)へ帰つてしまつて、あれは姿はあつても殻に過ぎないといつてイナウをあげる者もなく、和琴神社の傍にあるが勝った句信仰の対照としてのものではなかつた。その後昭和十三年の屈斜路大地震の為、和琴の温泉が出なくなり、戦争で観光客も失つたので神社の位置が不便になつたので、再び位置変更の必要にせまられて、和琴校で不要になった奉安殿を譲り受けて、それを神殿にして祭ることになり、義経さんだめは忘れられたやうに砂地の上に残されてゐる。
湖水神社 p.175
 屈斜路湖畔を開拓した四国団体の人々は、大正二年にポントの湖畔に應神天皇を祀る湖水神社の祠を建設し、困難な開拓の精神的な支へとした。この他に神職に関係の深かった新藤信吉氏は、故郷愛媛の金刀比羅さんを同じポントに設立して、故郷の神々の保護に開拓の後楯としたりもした。
和光神社 p.175-176
 同じ屈斜路も奥地に近いウランコシに入植開拓した福島茨城の団体の人々は楠公を中心神体とする和光神社を大正五年頃にウランコシに建立して心の寄りどころとした。何故楠公を祀つれたかについては発起人の名と共に不明である。このやうに同じ県出身の団体開拓には必ず、故郷の村や信仰の中心になつてゐる(以下略)。
雑記  最寄駅は、釧網本線美留和駅で東南東へ11km(道程14km)、役場のある摩周駅は南東へ16km(道程19km)の所にある。
 町役場は摩周駅から南西へ0.4km余の所にある。

 当社の社名は、屈斜路神社でも和琴神社でも通用すると思はれ、当訪問記では併記することとした。

 観光に来て、和琴半島を一周した際、参拝した。半島ではミンミンゼミの声が聞けた。ミンミンゼミの北限として天然記念物に指定されてゐるのを事前に知ってゐたので、聞けて嬉しかった。一般には道南の渡島半島が北限だが、地熱があるので孤立した生息地となってゐる。(近年は、定山渓温泉(2009年)、増毛、旭川の常盤公園でも鳴声を聞いたといふ)
 和琴フィールドハウスで展示を見せてもらふなかで、係員から例年ならもう鳴かない季節だと伺った。全国、異常なほど暑い。


【弟子屈町】について
人口等   人口:6657人(令和5年8月末現在、昭和35年には13622人に達した)
      面積:775km2 (国立公園が65%を占める)
産業    観光と酪農。温泉と屈斜路湖・摩周湖がある。
沿革(4)
 ・縄文時代の遺跡がある
 ・松浦武四郎探検時 17戸のアイヌ居住
 ・明治10年 硫黄山の硫黄採鉱(〜明治29年まで)
 ・明治23年 最初の農民入植
 ・明治30年 町内の大部分が御料林に指定
 ・明治36年 熊牛村(後の標茶町)から分村し、弟子屈外一村戸長役場を設置
 ・明治40年代 製紙向けで林業興隆
 ・大正12年 弟子屈村(二級町村制)となる
 ・昭和初期 観光客増加(背景に、摩周湖・阿寒湖への道路開削、鉄道の開通、国立公園指定運動がある)
 ・昭和18年 一級町村制施行
 ・昭和22年 町制施行
神社  町内には神社庁包括下の神社は川湯神社弟子屈神社の二社があり、地理院地図に神社記号は、他に4箇所ある。(5)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 鳥居・社殿

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿 斜め前

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 手水鉢

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 馬頭観世音
 昭和十年七月十七日と年記がある

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 社殿前から鳥居方を望む

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 参道
  (社殿・鳥居を背に撮影)


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』 平成11年 p.1252、1253
  2. 令和5年11月6日閲覧 ブログ 歴旅・温泉、そしてチョッと釣り〜北海道の歴史と文化 内弟子屈の奉安殿 2010年05月04日 釣山史 (つりやま ふみ)
  3. 弟子屈町史 昭和二十四年 編集 更科源蔵 発行 弟子屈町役場 p.175、176、234-235
  4. 令和5年10月閲覧 主に弟子屈町webの 弟子屈町「川湯」地域の歴史 及び、ウィキペディア弟子屈町に依った。
  5. 令和5年10月11日確認 弟子屈町域の国土地理院地図で神社記号のある神社についてグーグルマップにより社名や社殿の確認を行った。
    • 社名(地名) / 緯度 経度 / 読み / コメント
    • 屈斜路神社(屈斜路) 43度34分52.18秒 144度18分41.74秒 くっしゃろ 
    • 鐺別神社 (弟子屈) 43度28分52.71秒 144度30分31.84秒 とうべつ 確認出来ず(*)
    • 美留和神社(美留和) 43度28分49.04秒 144度26分58.44秒 びるわ 
    • 大山神社 (川湯駅前) 43度36分56.48秒 144度27分20.89秒 
      (*) 令和5年10月6日閲覧 2021年付けで社殿の写真がweb上にあった。直近の国勢調査では鐺別の人口は、ゼロ。
       かつては鐺別温泉があり何軒もの旅館があったが、今は無い。昭和8年には高浜虚子が宿泊し、句碑があるといふ。故郷富山を偲ぶとともに鐺別温泉の守護神で、旧桜ヶ丘森林公園オートキャンプ場から鐺別神社に行くことができると云ふ。(弟子屈町「鐺別」地域の歴史より)

改訂記録
  • 令和06.01.21 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)
  •  〃    26 配置再修正

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