神社訪問記ホーム(都道府県の選択)北海道の神社にもどる

川北神社 (北海道〈根室〉標津町川北)

参拝日 令和4年6月12日(日)
作成日 令和5年10月28日(土)
よみ  かわきた じんじゃ
概要  北海道根室管内標津町川北に鎮座する。明治40年創祀、社殿は大正3年建立。昭和55年に現在地に遷座した。  
所在地  〈根室管内〉標津町字川北93番地18
  北緯 43度39分35.98秒
  東経145度1分15.97秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北 1.3 km、
印:本殿位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 川北神社
祭神  応神天皇 (おうじんてんのう)
由緒  旧社格 該当無し(未公認)

 北海道神社庁webによると、次の通り。(1)
本神社は明治35年、根室原野を入植地として区画設定し開拓されて以来、逐年入植者を見るに至り、明治40年先覚者の提唱により小祠を建立し春秋の祭祀を行った。御祭神については、何時・誰が・何処から勧請したかは定かでない。 大正3年、北海道拓殖費より金300円の補助を受け、国有未開地324坪を無償借受け、境内地として木造柾葺神明造15坪の社殿を造営した。 昭和23年6月18日神社創立、昭和28年9月19日法人神社として認証を受く。昭和54年10月20日台風により本殿を除く社殿が倒壊、これを契機に神社移転論が台頭する。 折りしも隣接する学校用地拡張の為境内地買収の申出があり、協議の結果、町において造成した公園の一画を神社境内地として取得し、木造神明造25坪を御造営し、昭和55年9月13日正殿遷座祭を斎行し現在に至る。
雑記  近くに鉄道駅は無い。平成元年までは標津線川北駅が当社から南東へ0.5kmの所にあった。川北駅は昭和12年の標茶─根室標津間全通時に開業した。また、昭和2年に標津まで開通した植民軌道の川北駅があったが、標津線開通により廃線・廃駅となった。 
 町役場は標津市街にあり、当社から東へ8.9km(道程10.7km)の所にある。


 境内に川北開拓碑がある(写真6参照)。碑文は次の通り。
  川北開拓碑
人跡未踏のうつ蒼とした原始林におゝわれたこの川北の地に開拓の鍬が入れられたのは明治四十五年四月手塩団体の入植に始る
続いて長沼団体 奈良団体と逐次入植 次いで大正末期から昭和初期にかけての集団移住により地域環境はその姿を大きく変えていった
爾来厳しい自然条件のもとたび重なる冷害凶作にあうなどの苦難の斗かいの中からこの地方に適合した主畜農業経営に活路を見出し今日の酪農郷の基礎を築き上げたのである 今日に近代酪農の進展をみるときこれを偏に七十余年の艱難辛苦に耐え農業に情熱を傾けて開発に挺身された先人の不屈の努力のたまものである こゝにその功績を讃えるとともに輝かしい未来に向けてこの地が更に発展することを願ってこの碑を建立する
   昭和六十三年九月吉日建立


 また雨に降られてしまった。写真は、シャッター速度が遅くなり雨が線になって写り込んだ。足下が濡れるのが厭で余り歩き回らなかった。
 写真には載せなかったが、赤松の樹があった。赤松は、大正8年に在住した方が郷里の栃木県から取寄せ屋敷林として植えたものを昭和58年に当社に移植されたもの。「記念の木」として町指定の天然記念物となってゐる(松前に設置の掲示より)。なお、北海道に赤松は自生してゐない。


【標津町】について
  • 人口等  人口:4863人(令和5年9月末)、昭和40年の8051人がピーク(2) 面積:624km2
  • 産業   酪農 漁業
  • 沿革(3)
    • 7〜13世紀 標津遺跡群(擦文文化やオホーツク文化の集落跡を代表する広域的な遺跡群、縄文時代のものを含む)がある(4)
    • 江戸中期 松前藩は場所請負制を始めた。
      • 安永2年(1774) 飛騨屋久兵衛に場所請負はす
      • 寛政元年(1789) 村山伝兵衛に場所請負させた
      • 寛政8年(1796) 小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる
      • 安政6年(1859) 北方警備のため、会津藩が根室・紋別を幕府から譲渡された
    • 明治12年 戸長役場設置(標津町の開基)  標津村・伊茶仁村・薫別村・崎無異村・忠類村・植別村を管轄
      これ以降の管轄・編入:明治17年茶志骨村編入、明治34年植別村分離(現 羅臼町)
    • 大正12年 二級町村制の標津村となる
    • 昭和元年 標津-中標津間の植民鉄道開通
    • 昭和12年 標津線開通(根室標津駅開業)、植民軌道廃止
    • 昭和21年 中標津村が分村
    • 昭和33年 町制施行し、標津町となる
    • 平成元年 標津線廃止・根室標津駅廃止
  • 神社  町内に国土地理院地図に神社記号のある所は、当社を除いて6社ある。(5)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿 正面(南東向き)

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿 斜め前

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿 側面

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 拝殿前から鳥居方を望む

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 碑文は、雑記欄に記した。
 碑背には「大正初期に川北に移住した 故 奥 喜六 は開拓当時の先人の遺徳を偲び開拓碑の建立に熱意を燃やしつゝ他界 その父の遺志を継承して  奥 勝 義が建立し川北地区町内会連合会に寄贈した」とある。

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 土俵
 鳥居をくぐって右手にある。
 奥の黄色い壁のある建物のある所は、川北認定こども園「にじいろ」。


出典・脚注
  1. 令和5年10月25日閲覧 北海道神社庁web 北海道の神社 川北神社
  2. 「津別町人口ビジョン及び総合戦略」令和3年4月 津別町 p.1
  3. 令和5年10月23日閲覧 ウィキペディア 標津町
  4. 令和5年10月26日閲覧 ウィキペディア 標津遺跡群
  5. 標津町内にある神社で、国土地理院地図に神社記号があるのは、神社庁包括下の当社と標津神社の2社を除いて6社で、社名と位置は次の通り。社殿の確認や社名は、主にグーグルマップによった。
       社名   地名  緯度・経度 読み リンク(*)
    • 薫別神社 (薫別) 43度47分41.68秒 145度3分36.66秒 くんべつ 
    • 薫別稲荷神社(薫別)43度47分43.80秒 145度3分41.22秒      
    • 古多糠神社(古多糠)43度44分56.16秒 145度1分42.29秒 こたぬか 
    • 忠類神社 (忠類) 43度43分22.22秒 145度5分28.94秒      
    • 北標津神社(北標津)43度42分15.50秒 145度1分15.41秒      
    • 茶志骨神社(茶志骨)43度38分11.46秒 145度9分48.72秒 ちゃしこつ 
        (*)リンク G:グーグルマップへのリンク

改訂記録
  • 令和06.01.21 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)
  •  〃    26 配置再修正

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)


inserted by FC2 system