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生田原神社 (北海道〈オホーツク〉遠軽町生田原)

参拝日 令和4年6月10日(金)
作成日 令和5年7月16日(日)
よみ  いくたはら じんじゃ
概要  北海道オホーツク総合振興局管内遠軽町生田原に鎮座する。
 ・大正七年、札幌神社(現 北海道神宮)(1)の開拓三神を勧請した
 ・昭和十二年、公認神社となり
 ・昭和十五年村社に列格した  
所在地 〈オホーツク管内〉遠軽町生田原237番地
  北緯 43度55分14.28秒
  東経143度32分27.22秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
 
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 生田原神社
祭神  大國魂神 (おおくにたまのかみ
 少彦名神 (すくなひこなのかみ)
 大己貴神 (おおなむちのかみ)
由緒  旧社格 村社
 北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載ってゐる。(2)
由緒 草創期は僅かに住民が小祠を建て祭祀を行っていたが、大正七年相謀りて札幌神社(1)に請願し三柱の大神の御分霊を拝戴し神殿を改築し生田原神社として祀ったことに始まる。昭和八年小森七郎より境内地の寄附を受け、昭和九年十一月社殿の新築を行い境内諸般の整備がなされた。昭和十二年六月神社の社格が認可され、昭和十五年村社に列せられる。昭和二十一年宗教法人生田原神社とし設立され現在に至る。昭和三十一年八月西生田原神社(未公認)を合祀した。昭和五十一年十一月現在の神社社務所及び宮司住宅を兼ねて建設した。
雑記  最寄駅は石北本線生田原駅で北西へ0.6kmの所にある。 
 町役場(遠軽町総合庁舎)は、北へ16kmの旧遠軽町域にある

【生田原】について
  平成17年(2005)に生田原町、遠軽町、丸瀬布町、白滝村が新設合併で遠軽町となってゐる。
  • 人口等(合併前)  人口:2517人、面積:269km2 (夫々厚木市の1.1%、2.9倍)
  • 産業  農業・林業・林産加工
  • 沿革(3) 
    • 大正14年(1925) 遠軽村から分村、二級町村制の生田原村となった。
    • 昭和10年(1935) 生田原銅山の試掘で優秀鉱脈発見。人口は6000人近くにまで増えた。
      生田原には、多くの鉱山があった。北の王金山・生田原銅山は規模が大きかった。砂金沢川と名づけられた川がある。(4) (5) (丸瀬布上丸にも丸瀬布川支流の砂金沢川がある) 
    • 昭和18年(1943) 金鉱山整備令を受けて北ノ王、生田原、昭和、隆尾の各鉱山閉鎖。
    • 昭和29年(1954) 町制施行
    • 平成17年(2005) 生田原町、遠軽町、丸瀬布町、白滝村が新設合併で遠軽町の一部となった
  • 生田原町域の神社 神社庁包括下の神社は当社のみで、地理院地図に神社記号は四ヶ所あった。(6) 

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭、一の鳥居
 社号標は平成六年に奉納されてゐる
 鳥居をくぐって直ぐの赤い屋根の祠は聖徳太子宮か。昭和七年建立の「聖徳太子碑」がある。
 写真右側の一部が写ってゐる建物は社務所

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 長い階段を登り切ったところ

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿(正面)
 灯籠は昭和十年奉納

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿(斜め前)
 狛犬は、昭和十五年奉納

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿(側面)

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 忠魂碑 陸軍中将佐藤子之助書 とある
 佐藤子之助は、昭和5年陸軍中将に進み、昭和六年第七師団長に親補された(7)丸瀬布神社には 第七師団 佐藤子之助書 の忠魂碑がある。

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 拝殿前から石段方を望む

御朱印
御朱印 拡大 (664×960)
 丸瀬布神社で頂いた


出典・脚注
  1. 札幌神社は札幌市円山に鎮座し、昭和39年に明治天皇を祀り、北海道神宮と改称した。
    以下は、
    西野神社(札幌市)の神職 田頭さんのブログ西野神社社務日誌 (2009-04-17)からの引用、ブログは退職に伴ひ令和5年6月30日を以て更新終了)
     札幌神社は明治2年創建、東京の庁舎で「北海道鎮座神祭」が行われた。この神祭の趣旨は、その時に奏上された祝詞や宣命によれば、「叛徒(旧幕府軍)の平定を告げて、北海道に浦安な平安を願い、荒ぶる神の働きが帰攘される事を希求し、五穀作物の繁栄を願い、官人の北海道差向を告げる」もので、この神祭は、北海道の開拓と北海道に於ける神社創建の出発点に位置付けられる、極めて重要な神事でした。この神祭で明治天皇の勅旨により降神されたのが「開拓三神」と称される、大国魂神(おおくにたまのかみ)・大那牟遅神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱の神様でした。
     明治4年札幌神社と社名が定められた。
     昭和39年に明治天皇が鎮座され、北海道神宮と改称してゐる。  
  2. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.595-596
  3. 令和5年7月12日閲覧 webサイトえんがる歴史物語内の生田原地域(1892年-1925年) 生田原地域(1954年-2004年)
  4. 令和5年7月11日閲覧 webサイト北の細道内の 生田原銅山 岐路がもたらしたもの他 すけきよ さん によると、次の様。(位置については当方で補記)
    • 生田原銅山 銅・硫化鉄鉱 昭和10年に試掘で優秀鉱脈発見、昭和12年日本鉱業(株)が買収し本格操業、昭和14年戦時金属鉱業整備のために一旦休坑、昭和28年閉山。生田原川上流部の清里で生田原駅から南西へ14km附近。
    • 隆尾鉱山 大正14年発見、昭和4年まで採鉱、昭和13年以降本格化、一時4kg/月の生産、昭和18年金鉱山整備令を受けて閉山。生田原川から仁田布川沿ひに距離4km程のところ
    • 共栄鉱山(旧生田原金山) 大正13年に採鉱着手、昭和に入り本格操業。規模の大きな精錬所があった。昭和18年金鉱山整備令を受けて閉山。昭和34年再開し名称変更。生田原駅から東南東へ4km余のすり鉢山の北がわ、留辺蘂との境ちかく。北の王鉱山の東隣
    • 北の王鉱山 道内四位の産金量があったと云ふ。昭和18年閉山。生田原神社から東へ1kmほどから先のところ。
  5. 令和5年7月11日閲覧 北海道生田原町北ノ王鉱山ほか2,3の金・銀鉱床調査報告 地質調査所月報 第10巻 第7号 番場猛夫 齋藤正雄 昭和31年6〜7月調査
       鉱山    産出物
    • 隆尾    金・銀
    • 旭野    水銀
    • 北の王   金・銀
    • 生田原   金・銀
    • 昭和    金・銀  共栄鉱山の南方0.5km
    • 矢矧    金・銀
    • 生田原銅山 銅・鉛・亜鉛
  6. 生田原町域の国土地理院による神社記号の位置と、グーグルマップによる社名は次の通り。
      社名  (所在地)  座標               備考
    • 安国神社 (安国)  43度59分38.44秒 143度32分22.51秒
    • 旭野神社 (旭野)  43度59分06.65秒 143度32分37.49秒 建物らしき屋根は見える
    • 不詳  (生田原)  43度55分17.82秒 143度31分49.69秒 存在は不明
    • 不詳   (清里)  43度51分34.42秒 143度30分32.33秒 存在は不明
     直近の国勢調査による人口は、旭野2名、清里32名
  7. 令和5年7月12日閲覧 ウィキペディア 佐藤子之助 

改訂記録
  • 令和06.01.28 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)

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