よみ
るべしべ じんじゃ
| 概要
| 北海道オホーツク総合振興局管内北見市留辺蘂に鎮座する。
・明治天皇崩御に際し、遙拝所を設けたのが始り
・昭和二年、村社に列せられる
・現社殿は平成十六年竣工
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所在地
| 〈オホーツク管内〉北見市留辺蘂宮下町115番地
北緯 43度47分24.59秒 143度37分13.25秒
東経143度37分13.25秒
地理院地図(ズームレベル15)
グーグル マップ(ズームレベル14)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西290km 南北270km
・+印:当社位置
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・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
・○印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
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HP等
| 北海道神社庁 北海道の神社 留辺蘂神社
留辺蘂神社・温根湯神社 宮司 田頭 寛(X(twitter))
留辺蘂神社(Facebook)
留辺蘂神社(Instagram)
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祭神
| 天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
(上記の北海道神社庁webによる)
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由緒
旧社格 村社
境内の掲示には次の様に記されてゐる。
| 鎮守留辺蘂神社
| 由緒
| 明治四十五年七月三十日、明治陛下崩御せられし際、市街地有志、斉藤喜一郎・佐竹喜太郎・吉田長三郎・仁瓶喜一郎・千葉新太郎・黒田四郎・光永勝助の各氏が相議り、現在の明治天皇碑の箇所に遙拝所を設け、住人一同遙かに哀悼の微意を表し奉れり。爾来此の地を記念し、小祠を建て天照皇大神を奉斎し、神徳を仰ぎ尊崇信仰して、年次例祭を斎行せり。
| 沿革
| 大正 十年 社殿建立
十五年 留辺蘂神社として創立許可を受ける
昭和 二年 村社に列せられる
十年 本殿の増築、階段の新設
十二年 大鳥居建立
二十一年 宗教法人 留辺蘂神社となる
二十六年 御神輿奉製
三十七年 社務所改築
四十九年 鳥居銅板復元工事竣工
平成 十六年 階段建設工事・大鳥居改修工事・社殿御造営工事竣工
| 御祭神
| 天照皇大神
大山津見大神
布都御魂大神
布留御魂大神
布都斯御魂大神
| 境内社
| 太子神社
御祭神 聖徳太子
| 礼拝施設
忠魂碑
留辺蘂営林署殉職者慰霊碑
御大典記念碑
謝恩植樹碑(全国厚経木折箱連合植樹会)
五柱石碑(天照皇大御神・大己貴大神・稲倉魂大神・埴安姫大神・少名彦那大神)
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北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載ってゐる(1)。
由緒 明治四十五年七月三十日明治天皇崩御在らせられた際、市街地有志の斉藤喜一郎外七名が謀り現在明治天皇の碑の箇所に遥拝所を設け、市街住民一同御遺徳を仰ぎ奉り遥かに哀悼の意を表わしてきた。爾来此の地を記念し小祠を建て天照皇大神の神霊を奉斎し、年次例祭を執行した。大正十五年留辺蘂神社として創立の許可を受ける。昭和二年に村社に列せられ昭和二十一年宗教法人となる。
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| 雑記
| 最寄駅は石北本線留辺蘂駅で当社から南へ0.5kmのところにある。間に無加川が流れてゐる。留辺蘂や温根湯温泉市街地、更に西側の厚和(こうわ)地区は無加川の谷底平野となってゐる。
市役所は東へ22kmの北見駅近くで、留辺蘂町上町には留辺蘂総合支所がある。
温根湯神社の訪問記にも書いたが、「留辺蘂」の名は、鉄道駅の名として知ったので読めてゐたが、書いたことは無い。しばらく後に、「蘂」は めしべ・おしべ の しべ と知った。そして漢字をよく見たら、難しい字ではなかった。単に画数が多いだけで、葉・菓・薬・菜と同じ構造で心を三つ書けば良いだけ。書いたことは無いが、必要があれば難なく書けさうだ。
石像物について
慰霊碑(写真10参照) 林業関係者によるもので昭和15年建立。碑背に碑文がある。4分の1程が読めないが、主旨は伝はると思ふのでここに記す。
北海道随一ノ美林温根湯国*******官行斫伐**************今未曾有ノ世局ニ会シ其ノ使途頗ニ重大ヲ加フルニ至******本事業開始以来二十年官民協力克ク万難ヲ排シテ今日ノ盛ヲ見ルニ至リシガ其ノ間**********シ或ハ森林鉄道事故ノタ*不慮ノ禍難ニ仆ルゝ等尊キ犠牲者ノ数亦少カラザルハ真ニ***泪ノ情ニ禁ヘサルナ*茲ニ皇紀二千六百年ヲ記念シ官行斫伐事業関*者並ニ地元有志相謀*之ガ慰霊******樹テ以テ後代ニ貽ラントス
昭和十五年十一月十日
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斫:きる(斧で切裂く、たたき切る)、うつ(撃ち割る)、斫伐(しゃくばつ)は伐採と同義
仆:倒
貽:おくる、のこす
建碑の前年、「昭和14年7月、北海道林業の父として尊敬されていた、当時の道庁林務課長、勅任技師の林駒之助氏が、軌道自動車に乗って視察の途中、温根湯森林鉄道51号付近(2)で、衝突事故により殉職された」(3)事故があった。他にも、丸太を一杯積んでゐるのだから荷崩れ・転覆や脱線があっても不思議では無い。
尚、氏の功績を讃える石碑(4)が、江別市にある国立の機関、林木育種センター北海道育種場内に建ってゐる。
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「謝恩植樹」碑 農林大臣 坂田英一書
台座にある碑文は次の様。
北海道厚経木開発六拾周年にあたり樹霊に対し感謝の意を現し留辺蘂町字金華国有林十二林班に植樹を行う茲に植樹を記念して本碑を建立す
昭和四十一年六月
全国厚経木折箱連合植樹会
北海道厚経木協同組合
全国厚経木問屋組合
全国折箱連合会
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「御大典記念」碑 昭和三戌辰年 帝國在郷軍人會留邊蘂町分會
灯籠一対・狛犬一対 共に新しくなってゐる竿部分・台石に「奉納 イトムカ鉱業所 昭和四拾九年9月移設」とある。
他の灯籠一対に「昭和三十四年九月十二日 開山二十周年記念」「寄贈 野々宮組 野々宮冨太郎」とある。開山とはイトムカ鉱山の事だらう。
【留辺蘂】について
留辺蘂町は、平成18年、北見市・端野町・常呂町と合併し、北見市の一部となった
- 人口等 人口(平成17年末):8704人 面積:565km2 (夫々、厚木市の4%、6倍)
- 産業 林業・温泉
- 沿革
- 明治32年(1899) 温根湯温泉開湯
- 大正元年(1912) 留辺蘂駅開業(野付牛(現北見市)・網走、帯広方面へ鉄道で繋がった)
- 大正4年(1915) 野付牛村(後の北見市)から武華村が分村(後の留辺蘂町)
- 大正10年(1921) 二級町村制施行し、留辺蘂町と改称
留辺蘂駅から西へ延びる温根湯森林鉄道開通(本線17.3km、支線6.6km。昭和29年には総延長81.5kmに達した。昭和36年全線廃止。イトムカ鉱山は森林鉄道の延伸に従って発見された。工業所への物資や人員輸送にも利用された。(5))
- 昭和7年(1932) 石北本線全通(旭川方面へつながった、札幌へも短絡)
- 昭和12年(1937) イトムカ(伊頓武華)で水銀鉱山発見(採鉱は昭和14年から。当社からは鉱山は西南西へ39km、精錬所は26kmの所)
- 昭和13年(1938) 一級町村制施行
- 昭和29年(1954) 洞爺丸台風による風倒木発生(旭北峠を越え旭川営林局内からの山越え運材実施、機械化、夏山造林、林道拡幅とトラック輸送、が進んだ)
- 昭和47年(1972) イトムカ鉱山閉山
- 昭和49年(1974) イトムカで水銀含有廃棄物処理事業開始(6)。
- 平成18年(2006) 北見市・端野町・常呂町と合併し、北見市の一部となった
- 神社 留辺蘂町域には神社庁包括下の神社は、温根湯神社と当社の二社。他に国土地理院の地図にある神社記号は13ヶ所。(7)
当社に着いたのは17:40頃。旅行前の計画では、16:20頃の到着だった。御朱印を頂けるかもしれないと期待もあったが、この時間では無理。参拝できただけで良しと思ふ。当初計画では、相内神社と北見図書館での調べ物の計画をしてゐたが、実行不可。当社を出たのは18:20頃で、ホテルへ直行とした。
(計画とのずれの原因は、常呂で郵便局から絵葉書を出す際にうっかりミスで時間を掛けてしまったから。局員さんにも迷惑をおかけした。常呂神社の訪問記で書けば良いものの、ここでしわ寄せが顕在化したので、記しておくことにした)
と云ふ事でオホーツクの神社巡り3日目は、当社で終了。北見で宿泊した。
(令和6年1月28日追記)
令和5年11月に田頭 寛氏が第4代宮司に就任された。SNSで情報発信されてゐる。
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