よみ
あいのない じんじゃ
| 概要
| 北海道北見市相内に鎮座する。天照大神と豊受大神を祀る。
- 大正11年 創建、大正10年の北見市(当時は野付牛町)から分村を機に村の鎮守として木標建立
- 昭和 7年 遷座、相内小学校の旧奉安殿を社殿として流用し、社殿地を定めた
- 昭和27年 社殿造営
- 昭和32年 相馬神社が境内に遷座(相馬神社は美園(当時の二区)に屯田兵入植後に創祀)
- 昭和34年 三吉神社が境内に遷座(昭和十年、秋田県人会が三芳に造営、区画整理のため)
- 近隣神社の合祀 昭和36年から平成元年にかけて6社を合祀してゐる
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所在地
| 〈オホーツク管内〉北見市町51番地
北緯 43度48分2.70秒
東経143度45分54.66秒
地理院地図(ズームレベル15)
グーグルマップ(ズームレベル14)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西290km 南北270km
・+印:当社位置
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・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
・○印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
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HP等
| ・北海道神社庁 北海道の神社 相内神社
・Wikipedia:相内神社
・当社相内神社( X 旧称 ツイッター)
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祭神
| 天照大神(あまてらすおおかみ)
豊受大神(とようけのおおかみ)
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由緒
旧社格 無格社
北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載ってゐる(1)。
由緒 大正十年現在の北見市(旧野付牛町)より分村するに及び翌十一年屯田第三中隊の有志相寄り木標を建立、祭祀を行ったのを創祀とし、その後小祠を建立、昭和十年頃より今村二代目宮司は、仏教が根強く長い伝統を持ち、神を軽視するを憂い、自力を以って氏子を教化し、遂に昭和二十七年に私財と氏子よりの浄財により現御社殿を御造営。その後境内整備、一層の氏子教化育成を図り、今日の隆盛を見るに至った。
境内外攝末社
三吉神社 霊人大神
相内相馬妙見神社 天御中主大神
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北海道神社庁webの「相内神社」(2)には次の様に記されてゐる。創祀の時期について上記の内容と相違がある。
由来 明治30年、当地に移住した屯田歩兵第四大隊第三中隊による祭祀を淵源とし、大正10年野付牛町(現・北見市)より分村したのを機に翌11年、元屯田兵を初めとする有志が相寄り小祠を建立。その後、昭和10年代より家業のかたわら朝夕参拝し、奉仕活動や村民の教化育成に励んでいた今村政男を初代宮司として迎え、宮司の私財と氏子よりの浄財を以て昭和27年、現在地に御社殿を御造営。境内整備、一層の氏子教化を計りつつ今に至る。
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屯田兵の出身地は様々だったので、早い時期に神を祀るのが自然なので北海道神社庁webの方が納得ゆく。例えば上湧別神社は屯田兵移住の年(明治30年)に練兵場の一隅に木標をたててゐる。
然しながら、ウィキペディアの記載を読むと、屯田兵が入植した三地区に建てられた小祠とは別に、相内神社を創祀したとしてゐる。
そのほか、ウィキペディアには境内社、合祀された七社についても述べてゐて、内容は充実してゐる。
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雑記
| 最寄駅は、石北本線相内駅で当社から西南西へ1.0kmの所にある。
市役所は、東へ10kmにある。
当社に着いたのは、ほぼ12時。10分前に着きたかったが叶わず。
社務所玄関には、社務取扱時間や御朱印対応の案内があった。御朱印は10分程かかるとのこと。10分前着でも、昼に掛ってゐたかもしれない。公式ツイッターには、毎月の御朱印画像が掲載されてゐる。
【相内】について(3) (4)
- 人口等
- 合併時 人口:6623人 面積:130km2
- 直近 人口:2328人(令和5年7月31日)
- 沿革
- 明治30年 屯田兵入植99戸、翌年100戸 (開基)
- 明治42年 二級町村制の野付牛村が成立
- 大正5年 一級町村制施行し野付牛町となった
- 大正10年 野付牛町から相内村・端野村が分立(共に二級)
- 昭和4年 一級村に移行
- 昭和17年 野付牛町が市政施行し北見市と改称
- 〃 村内に9字を設置
- 昭和31年 北見市に編入合併
- 神社 相内村だった地域に、国土地理院地図の神社記号は東相内に一箇所あるが、廃社となってゐるもよう。(5)
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