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上湧別神社 (北海道〈オホーツク〉湧別町屯田市街地)

参拝日 令和4年6月10日(金)
作成日 令和5年7月10日(月)
よみ  かみゆうべつ じんじゃ
概要  北海道オホーツク総合振興局管内湧別町に鎮座する。
  • 明治三十年、創祀。屯田兵として移住があり練兵場に標木を建立し大巳貴大神を祀った。
  • 大正十五年、札幌神社(現北海道神宮)の御分霊(開拓三神)を勧請し上湧別の総鎮守となる。
  • 昭和三年、村社として公認。
  • 平成八年、創祀100年を祝ふ。
 
所在地 〈オホーツク管内〉湧別町屯田市街地10番地
  北緯 44度9分29.50秒
  東経143度34分26.26秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
 
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 上湧別神社
祭神  大國魂神 (おおくにたまのかみ)
 大己貴神 (おおなむちのかみ)
 少彦名神 (すくなひこなのかみ)
由緒  旧社格 村社
 境内にある「御創祀百年」碑横の由緒記碑(写真7参照)には次の様に刻まれてゐる。(1)
 総鎮守 上湧別神社由緒記
御祭神
 大國魂大神 北海道の国土の神
 大巳貴大神 国土経営 開拓の神
 少彦名大神 医薬 酒造の神

 明治三十年五月二十九日全國府県より屯田兵二百戸の移住あり 同年十一月三日天長節の佳日に屯田兵練兵場中央の一隅に標木を建立し 大巳貴大神を祀り幣帛を奉り祭典を斎行したのを上湧別神社の御創祀とする
大正十年七月 聖上摂政に在らせられ 本道への行幸啓を記念し社殿を造営
大正十五年九月二十七日札幌神社(現北海道神宮)の御分霊を勧請し郷土上湧別の総鎮守として奉斎
昭和参年五月 昭和天皇ご即位のご大典の佳き年 内務省より村社として認可さる
例大祭は 毎年九月二十九日と定め現在に至る
平成八年九月 上湧別神社御創祀百年を奉祝し ここにこの碑を建立す
御創祀百年記念事業委員会
撰文    宮司 鎌田正棋
記名石奉納 平成八年度厄払者一同
工匠    横幕石材工業
      木間富士雄 謹書

(碑背)
  合祀記
祭神名    元鎮座地   合祀年月日
 水天宮   北兵村一区  昭和三十八年
 八幡神社  南兵村三区  平成二十年四月二十日

 北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載ってゐる(1)
由緒 明治三十年五月二十九日、屯田兵制の許に、二〇〇戸が移住し、同年十一月三日(当時の天長節)本村の中枢たる中央練兵場の一隅に木碑を建立し大国主命を祀り幣帛を捧げ祭典を行なった。爾来毎年祭祀を行って来たが、大正十年七月十五日摂政の宮殿下(昭和天皇)の本道行啓を記念として、茲に神社を建立し大正十五年九月二十七日官幣大社札幌神社(2)の御分霊を奉安し、本村の総氏神として崇敬し毎年九月二十九日(屯田兵移住記念日)を例大祭として祭典を行なってきた。これが昭和三年五月内省二北第十二号を以て許可せられ、昭和八年十一月二十二日道庁告示第一六二一号を以て神饌幣帛供進神社に指定された。平成八年九月四日御創祀百年奉祝大祭を斎行した。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
 水天宮神社 天御中主 神明治三十二年九月二十九日創祀 昭和三十八年九月一日合祀
雑記  最寄駅は、石北本線遠軽駅で南南西へ12kmの所にある。かつては上湧別駅が南へ1.2kmの所にあった(大正5年開業、平成元年廃止、名寄本線廃線に伴ふ)。また、東北東へ0.5kmには北湧駅(昭和41年仮乗降場として開業、昭和62年駅となり、平成元年廃止。名寄本線廃止に伴ふ)があった。 
 役場は、南へ0.8kmにある。


 境内に、「苦根楽果」の碑が境内にある。碑文は次の様(正字体や異体字は現在通用の文字に置換えた)。上湧別の成立ちに大きく関わる事が記されてゐるので、不正確ではあるがここに記すことにした。
       陸軍大将正三位勲一等功二級子爵 大迫尚敏(3)
拓疆鎮辺者為政之要務経国之大本也明治維新 勅拓北海道也尋設屯田兵農相兼以鎮辺可謂 皇謨深遠矣北見國地闊煙疎植民備寇為喫緊明治三十年五月移根室国和田村屯田歩兵第四大隊本部於此地置五個中隊也分置其第四第五両中隊於紋別郡湧別村募兵戸二百於府県以屯翌年九月又暮二百戸配之方是時榛狉荒涼殆為無人境衆便鼓勇芟荊誅棘通径鑿渠墾闢惨憺辛酸備曾未幾変隴開菜畦連忽成大農邑於是新築小黌増置分校寄付基本金若干更挙公有財産所生剰貲欠助村政広公益不尠三十六年四月解隊編入後備役三十七八年役出征樹功三十九年四月布二級町村制四十三年四月分設上下二村画基線六号以南為上湧別村現今闔村二千八百戸一万参千人拓開券功鉄路貫通殖産興業日隆月旺頗致殷阜可謂村民能奉体 叡*1翊賛経国之偉業者矣今茲乙卯村民胥謀欲為 即位大礼記念樹石以伝其事蹟属文於予予嘗承乏屯田歩兵第四大隊長縁因殊深乃撮其要勤之負a俾後昆永仏諼焉旦系銘銘曰
 鎮辺拓土 賛嚢遠猷 伐榛斬莽 戴踏耘耰
 戮力廿載 萬頃開疇 家給人足 徳垂千秋
 大正四乙卯年十一月
     陸軍中将正三位勲一等功二級 小泉正保撰
PCで表示できない文字は似た文字で置換えたり、参考のために普段目にしない文字の読みや意味を記した。
疆:さかい、かぎり。果て、区切り   謨:はかりごと、はかる   闊:ひろい。(闊歩・迂闊等)   寇:あだ、かたき。外敵   狉:旁の横線の間は人となってゐる   芟:草を刈る、取除く   隴:おか、うね   黌:まなびや、学校   貲:たから、もとで、財産   功:力部分が刀になってゐる   券:刀部分が大の文字   旺:さかんな様、光を放って美しく輝く様   殷:さかん、おおい、ゆたか、にぎやか   阜:おか、台地、おおきい、ゆたか、さかん   後昆:後の世   *1:上の下に日を組合わせた文字   諼:いつわる、わすれる


タイムカプセル  タイムカプセルの碑があり、その後ろには高さ1m弱の小山があった。碑には「ここに埋設されたタイムカプセルは開基80年(1976年)を記念し、当時の町民の生活記録を収納し後世に伝えようとするものです。2026年9月29日に開封公開することになっています。 埋設年月日 1976年10月9日 上湧別町」「寄贈 横幕石材店 創業58年初代末吉(80才)健在を記念してこれを建立する」とある(共に横書)。期日まであと、3年3ヶ月くらい。内容を町のHPで知らせてくれるといいな。


湧別町】について
    平成21年に当時の湧別町と上湧別町が合併し新たな湧別町が発足した。
  • 人口等
    • 人口:8000人余(合併前の上湧別町域:約5500人)、
    • 面積:506km2(合併前の上湧別町域:161km2(厚木市の1.7倍))
    • 人口密度:16人/km2(合併前の上湧別町域:34人/km2)
  • 沿革
    • 寛文元年(1661):『元禄御国絵図』に「ユウベチ」の地名あり
    • 明治3年(1871):藤野四郎兵衛が湧別で漁業開始
    • 明治15年(1882):湧別町の開基
    • 明治30年(1897):屯田兵第一陣入植、翌年第二陣着、計399戸。上湧別町の開基
    • 明治39年(1906):村名を湧別村とする
    • 明治43年(1910):村を分割し下湧別村・上湧別村とする
    • 大正8年(1919):上湧別村から遠軽村が分村
    • 昭和28年(1953):町制施行、湧別町(元下湧別村)・上湧別町となる
    • 平成21年(2009):湧別町と上湧別町が新設合併で、(新)湧別町となる。
  • 神社 湧別町には、神社庁包括下の神社は当社と湧別神社の二社がある。合併前の上湧別町域にある、国土地理院地図に神社記号は10ヶ所ある(4)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
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写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 鳥居は柱に次の様に刻まれてゐる、「開村三十年記念大正十五年建之」「南湧別屯田兵部落 北湧別屯田兵部落」「ナゴヤ市西区八坂町 石匠 角田六三郎」
 社号標は「上湧別神社」、背面に「昭和九年五月吉日 奉納者 藤枝幸次郎 謹建」。石工は鳥居と同じ方(遠軽神社の狛犬も名古屋の石工、但しお名前は違ふ)
 灯籠一対は、昭和七年九月吉日と年記と寄進者氏名が刻まれてゐる。

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 参道

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 二ノ鳥居

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿正面
 狛犬は大正十四年八月奉納
 灯籠(写真内で社殿から最も遠い一対)は、昭和二年九月・北兵村第一區一同 と刻まれてゐる

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 「御創祀百年」碑(明治神宮宮司 戸山勝志謹書)と由緒碑。平成八年建立。社殿に向って右手にある。
 境内には、御創祀百二十年の碑もある。(社殿に向って左)

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 忠魂碑、背面に「大正二年十月三十一日建之 帝國□□□□上湧別村分會」
 台座には金属板が嵌め込まれ「戦没者英名」が刻まれてゐる。明治三十七八年日露戦役では陸軍歩兵が41名、海軍水兵が1名。屯田兵が主体なのが窺へる。他に、大正七年西比利亜守備従軍1名、昭和六年乃至昭和九年満州事變、大東亜戦争での多数の戦没者が記されてゐる。(□部分は、文字数も不定かで読取れなかった。一般には「在郷軍人會」)
  西比利亜:シベリア

御朱印
御朱印 拡大 (681×960)
 


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.594-595
  2. (西野神社(札幌市)の神職 田頭さんのブログ西野神社社務日誌 (2009-04-17)からの引用、ブログは退職に伴ひ令和5年6月30日を以て更新終了)
     札幌神社は明治2年創建、東京の庁舎で「北海道鎮座神祭」が行われた。この神祭の趣旨は、その時に奏上された祝詞や宣命によれば、「叛徒(旧幕府軍)の平定を告げて、北海道に浦安な平安を願い、荒ぶる神の働きが帰攘される事を希求し、五穀作物の繁栄を願い、官人の北海道差向を告げる」もので、この神祭は、北海道の開拓と北海道に於ける神社創建の出発点に位置付けられる、極めて重要な神事でした。この神祭で明治天皇の勅旨により降神されたのが「開拓三神」と称される、大国魂神(おおくにたまのかみ)・大那牟遅神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱の神様でした。
     明治4年札幌神社と社名が定められた。
     昭和39年に明治天皇が鎮座され、北海道神宮と改称してゐる。
  3. 令和5年7月9日閲覧 大迫尚敏  明治33年、永山武四郎の後任として第七師団長に就任し、6年務めた。第七師団の母胎は屯田兵で、日露戦争では二〇三高地の攻撃、奉天会戦に参戦、明治39年に帰国し、この時の功で大将となった。大正四年退役。学習院院長を乃木希典大将の後任とし約六年務めた。
  4. 令和5年6月27日しらべ  神社の位置は地理院地図、名称はグーグルマップによった。
    上湧別町域の神社
      社名  地域 鎮座地座標  よみ・コメント
    • 旭神社  (旭)    44度12分17.85秒 143度33分33.84秒
    • 富美神社 (富美)   44度08分27.25秒 143度30分56.72秒 ふみ
    • 中富美神社(上富美)  44度08分18.55秒 143度28分46.48秒 社殿等確認出来ず
    • 上富美神社(上富美)  44度07分15.73秒 143度27分46.46秒
    • 神明宮  (北兵村三区)44度11分39.75秒 143度36分41.56秒
    • 中湧別神社(中湧別北町)44度11分31.50秒 143度35分42.69秒
    • 八幡神社跡(南兵村三区)44度08分18.49秒 143度33分44.27秒 跡地を示す碑あり(*2)
    • 北見天満宮(南兵村二区)44度08分00.09秒 143度34分33.94秒
    • 川上神社(南兵村一区) 44度07分10.35秒 143度34分03.82秒
    • 光萃神社 (開盛)   44度06分03.85秒 143度31分20.51秒 かいせい
       (*2)平成二十四年に上湧別神社に合祀された。(御創祀100年碑より)

改訂記録
  • 令和06.01.29 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)

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