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頁作成日 平成29年1月29日 |
曽屋上水道記念碑 神奈川県知事従四位勲三等半井 清題額
此の地は往昔曽屋村と称する寒邨に過ぎさりしも夙に水利の恵沢を受ること大なり享保八年の頃井大明神及び乳牛水神社の境内より湧出せる泉水 を引き道路の側に用水堀を設けて飲用に供す後煙草製造の業盛なるに及び大道通発達し人口の増加するに伴ひて飲料水の欠乏を告ぐ安政四年三月 佐藤安五郎氏私財を投じて井大明神の湧出口より北方に向ふ壱百間の隧道を開鑿して多量の清水を得なほ大道通用水堀五百間に改修を加へ翌年二 月竣工す而も当時水辺に器物を洗ひ水質を汚損するもの多く剰へ降雨の際路上の砂泥塵芥流入し清冽球の如き浄水は化して掬すべからざる汚水と 変す仍りて識者の間にこれが改善の議起りたりしも荏苒久しきに亘りて実行をみずたまたま明治十二年八月虎疫発生して八十一人の患者を出し内 二十五人死亡す当時内務省派遣技師の調査によれば飲料水の不潔なるに基因すといへり明治二十一年に至り上水道建設之議いよいよ進みその三月 水道工事委員佐藤政吉氏外三十六氏連署戸長興津弥平氏奥印大住淘綾郡長佐藤喜左衛門宛飲料水改良に関する設計出願をなす尋いて神奈川県より 土木技師岩田武夫属大橋鎮二の両氏派遣せられ土地の状況と実地測量との結果簡易陶管水道を敷設するの計画を立て其の目論見書及絵図面を下附 せらる同年九月水道工事申合規約を制定し上曽屋中曽屋下曽屋大道乳牛上宿中宿下宿片町台及池の島を以て敷設区域と定め前記委員中より梶山良 助川口直次郎の二氏を工事担当人に選定し県派遣技師実地監督の下に同年十一月を以て工を起し同二十三年三月十五日悉皆竣功し五十の専用栓を 三十間つゝを隔つる共用栓及数ヶ所の消火栓に配水を行ふこの総工費実に壱万壱千三百六十五円を算するや町長村上長兵衛氏曽屋区会の決議を経 二十三年より七ケ年賦を以て償還すべき金五千円の区債を起さんとし明治二十三年十月内務大蔵両大臣の許可を得更に村上佐藤両氏代表となりて 曽屋水道区を会主とする無尽養老会を組織して寄附財源とし水道料と相俟つて区債の償還に充て後遂に所期の目的を達成せりこれ即ち我国最初の 簡易陶管水道にして実に曽屋上水道の濫觴たり爾来三十余年施設年を逐ふて櫎張す然るに大正十二年九月一日俄然関東の大震火災に遭遇し便益を 誇る簡易水道の設備は一朝にして全部破壞せられたり翌十三年一月十一日町会区会の聯合協議会を開催鉄管水道建設を即決し町長佐野義職氏の指 名に依り委員として町議石田佐吉同梶山久次郎区議山岸亀太郎同榎本辰蔵同高橋莨蔵の五氏を挙げ竹下久太氏を専任技術員に嘱託す諸氏震災焦土 の中に在りて自家の復旧を度外に置きひたすら其の企画に尽瘁す同年十二月二十五日神奈川県知事より上水道復旧工事の認可を得てより行事は着 着として進捗す鉄管は大阪栗本鉄工所に仰ぎ敷設の工事は大阪市須賀豊次郎に給水の工事は日本水道衛生工事株式会社に夫々請負はしむ取水口配 水池喞筒所等に至るまで孰れも精細なる注意の下に工事を進む大正十四年十一月十九日其の一段落を告げ同月二十二日落成祝賀の盛典を挙行す後 必要に応じ工を添へて現在に至る鉄管の延長六千五百九十二間専用栓壱千二十九特別共用栓八十七共用栓六百四十三消火栓九十四散水栓壱百六十 三を数ふ大正十二年九月一日より昭和十年五月三十一日に至る事業費実に四十壱万八千八百三十円三銭以て今日の完璧を見る今や滾々たる浄水は 至る所に得られ日常の便益はいふも更なり衛生上防火上一点の不安あるなく町将来の福祉亦甚だ大なりと謂ふべし按ずるに人生一日も欠くべから ざるは飲料水を以て第一とすこれを得るの途亦多種多様なるべきも水道施設は其の最たるものなり蓋し我が秦野町曽屋上水道は其の水質に於て将 又簡易にして有効なる点に於て我国水道史上稀に見る所而して洵に郷土の誇となすに足るこれが見学視察の為全国各地より集まるもの年々其の数 を知らず茲に其の沿革の大要を誌し併せて功労著しき諸氏の芳名を鏤して永く不朽に伝へんとす 昭和十一年十一月 秦野町長石井兵助撰文 秦堂 栗原宣太郎書 |
参考(よみ・意味など。小生が読めなかつたものに限定。出現順)
上記は、神奈川県秦野市曽屋の秦野市水道局曽屋配水場にある記念碑に刻まれてゐる碑文を転記したものです。 碑と転記文との相違について
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記念碑 | 碑文(一部) |